集落の形成

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廻り田新田への出百姓と集落の形成過程を図示したのが、表1-32と、図1-48である。村の南西の一角に斉藤家が土地を割り渡され、その隣に山田家が居を構え、さらにその西側に大舘家が居を構えるなど、廻り田新田では、村の南西端を端緒に、五日市街道と廻り田道との間から、人びとが居住をはじめたことが分かる。また、図でも明らかなように、廻り田新田では六筋もの、他村のための玉川上水分水が流れており、配置からみても、出百姓の屋敷は、既に通っていた分水に沿って建てられている。これらの分水は、享保一四年(一七二九)頃までにはすでに開削されており、元文検地ののちに出てきた百姓たちは、この分水から水を引ける場所に屋敷を建て、住みはじめたのである(第二章第六節4)。延享三年(一七四六)の「村指出(明細)帳(むらさしだし(めいさい)ちょう)」では、家数は依然三軒で、人数は八人(男三人、女五人)に減っており、開発の困難さがうかがえる(東村山市小町家文書)。また、この段階ではまだ新田には村役人が置かれていない。しかし、その後追々出百姓があり、寛延二年(一七四九)には六軒・一七人(男七人、女一〇人)に増加し、この年より、太郎兵衛が新田の百姓代となっている。宝暦五年(一七五五)には九軒・三二人(男一五人、女一七人)となり(東村山市小町家文書)、この年、鎮守の氷川神社(ひかわじんじゃ)が太郎兵衛の持地内に勧請(かんじょう)された(第一章第二節第八項)。宝暦八年には一一軒・三五人(男一七人、女一八人)、宝暦一四年には一二軒・四九人(男二四人、二五人)と、家数・村人の数を増加させ、集落を形作っている(東村山市小町家文書)。
表1-32 開発期~明治4年人口推移表
①寛保3年②寛延2年寛延3年③宝暦5年④宝暦8年宝暦12年⑤宝暦14年⑥明和6年明治4年出身村菩提寺
1太郎兵衛(60)34344458多摩郡廻り田村真言宗三光院
2庄兵衛(42)33543448入間郡久米村禅宗永源寺
3平左衛門(32)32333346入間郡北野村真言宗宝寿院
4五右衛門(37)224355413入間郡上留村真言宗宝寿院
5次郎兵衛(31)22435568入間郡新堀村真言宗宝寿院
6太兵衛(65)44335564多摩郡鈴木新田真言宗宝寿院
7杢左衛門(50)33344多摩郡廻り田村真言宗三光院
8孫八(32)335576多摩郡田無村真言宗宝寿院
9文右衛門(40)458875多摩郡中藤村真言宗宝寿院
10権三郎(31)22238多摩郡廻り田村真言宗三光院
11七兵衛(35)22237入間郡久米村禅宗永源寺
12四郎左衛門(35)239多摩郡廻り田村真言宗三光院
13勘右衛門(67)34真言宗宝寿院
14勘七(46)26禅宗海岸寺
15弥兵衛5真言宗三光院
16八十八4真言宗三光院
101717323545496199
男/女4/67/108/915/1717/1821/2424/2532/2948/51
( )入村時の年齢

廻り田新田集落形成過程
図1-48 廻り田新田集落形成過程
廻り田新田村絵図(斉藤家文書)より作成。