廻り田新田では、開発以来、忠兵衛・太郎兵衛家のように、積極的に土地を集積する者と、秣場として土地を割り付けられたものの、早々に手放す者との間で土地の譲渡が行われていたが、出百姓があった寛保年間(一七四一~四四)以降、この動きはより加速することになる。廻り田新田の出百姓となった太郎兵衛や庄兵衛・平左衛門が廻り田村の秣場の所持者から積極的に土地を買い集め、また、続いて廻り田新田にやってきた出百姓達も、続いて土地を集めていくことになる。宝暦一四年(一七六四)の名寄帳によれば(表1-33)、宝暦一四年では、廻り田新田の出百姓は一二軒ある一方、いまだ秣場として廻り田新田に土地を所持する廻り田村の百姓も一六名あり、廻り田新田はこの時点でも廻り田村の秣場であることを脱したわけではない。しかし、廻り田村の百姓の持地がおおむね九反以下であるのに対し、出百姓一二軒は一軒を除き一町以上の土地を所持しており、最初に出百姓となった三軒は四~五町もの土地を所持するまでに成長しており、出百姓が着実に成長していることがわかる。廻り田村の秣場所持者は、その後、明和二年(一七六五)に一一軒、天明元年(一七八一)には六軒と減っており、文政一二年(一八二九)には四軒となる。この四軒の持地は「伊豆殿堀際(いずどのほりぎわ)」と記されるが、この場所は検地帳で「古新田境」とされた野火止用水北側の廻り田村の南端の箇所であり、もともと廻り田村の持ち添え新田があった場所の南側である(斉藤家文書)。玉川上水北側の廻り田新田とは離れたこの場所は、その後も廻り田村の秣場として使用されたようである。
表1-33 宝暦14年名寄帳による廻り田新田土地所持状況 |
反別 | 新田百姓 | 持添出百姓 |
1反以下 | | 1人 |
1反以上 | | 3人 |
2反以上 | | |
3反以上 | | |
4反以上 | | |
5反以上 | | 2人 |
6反以上 | 1人 | 3人 |
7反以上 | | 3人 |
8反以上 | | |
9反以上 | | 1人 |
10反以上 | | |
11~15反 | 2人 | 1人 |
16~20反 | 3人 | |
21~25反 | 2人 | 2人 |
26~30反 | 1人 | |
31~35反 | | |
36~40反 | 1人 | |
41~45反 | 1人 | |
46~50反 | 1人 | |
計 | 12人 | 16人 |
小川紀子「武州多摩郡廻り田新田の家族構成」より転載。 |