廻り田新田の出百姓が成長し、本村の秣場状態から脱しつつあるなか、宝暦一一年(一七六一)には、おそらく川崎定孝の指示を受けて「出百姓年数覚(でびゃくしょうねんすうおぼえ)」が作成される(史料集一二、一二三頁)。また、当時の斉藤家当主弥兵衛(やへえ)が、父と祖父との開発にまつわる事歴をまとめた「廻り田新田壱村定事」を作成したのもこの頃である。廻り田新田が村として成長していくにつれ、廻り田村名主九兵衛を「代々草訳名主」とする表向きの歴史と、実際に土地を獲得し、村を切りひらいた忠兵衛・太郎兵衛・庄兵衛たちの歴史とは、ここにきて対立することになる。
廻り田新田が出百姓による村として自立するうえで大きな転機となったのは、明和五年(一七六八)の廻り田村の名主九兵衛の死である。すでに前年にも廻り田新田では独立の動きがあったようだが、同年九月、開発以来廻り田新田の表向きの実権を握ってきた九兵衛が死去したことから、廻り田新田の独立の動きが本格化する。廻り田新田の百姓代と組頭はすぐさま、九兵衛の後継の亀八(かめはち)はいまだ若年で名主役が勤まらないため、新田については、本村の名主が決まるまでは新田組頭の斉藤弥兵衛と山田庄兵衛とで、年番で預かりたいと、支配代官の伊奈半左衛門忠尊(いなはんざえもんただたか)に願い出ている(東村山市小町家文書)。廻り田村では、明和二年に九兵衛の息子が死去したため、孫の亀八を後継者として指名し、組頭たちが後見となる一札を交わすなど、九兵衛の後継をめぐって村政が混乱していた(東村山市小町家文書)。九兵衛存命中は、廻り田新田の独立に対し、分村してしまっては、本村は難儀するため、これまで通り、「裏表一同に組合候様」と、廻り田村と廻り田新田とは表裏一体であるとの姿勢を示していた。しかし、九兵衛が死去した後には、さきに見た廻り田新田からの願書に対し、亀八と後見の重兵衛(じゅうべえ)は「私共(わたしども)一同承知の上御願(おねがい)申し上げ候」と、廻り田新田の弥兵衛と庄兵衛による「預かり」を承認している(東村山市小町家文書)。以後、廻り田新田では、斉藤家・山田家は年番で名主と組頭を勤める体制が続き、廻り田村から預かり状態の解消を求める動きはみられない。廻り田村では、亀八の相続や後見をめぐるトラブルが続いており、本村の混乱の中、廻り田新田の独立が実現していったと考えられる。
安永七年(一七七八)には、その後の廻り田新田が「定名主御座無(ござな)く」と、本村からの預かりであるため、定まった名主がいない状態であり、「私(弥兵衛)并(ならび)に同役(どうやく)庄兵衛両人にて壱年替(いちねんがわ)りに名主役相勤め」と、斉藤家と山田家で一年交替で名主役を勤めていた。この年、弥兵衛が「近年病身」により、名主も組頭も勤められないため、退役を願い出ているが(史料集一八、一七三頁)、宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)の記載では、年番制度は明和五年から文政元年(一八一八)まで続いている。