文政二年(一八一九)、山田家の庄兵衛は四五歳の若さで死去し、子の栄蔵(えいぞう)が一五歳で跡を継ぐ。しかし、栄蔵は若年だったため、名主は斉藤家が勤め、栄蔵は、斉藤家と百姓代八右衛門(はちえもん)の世話を受けて組頭を勤めることとなり、以後、名主は斉藤家、組頭は山田家に固定されて幕末まで続く。本村からの独立、年番名主期を経て、廻り田新田は家数一四・五軒、人数七〇~九〇人の村として安定していくことになる(表1-32)。
この段階で、廻り田新田では、村の秩序を確認するため、「村議定惣連印帳(むらぎじょうそうれんいんちょう)」という議定を作成している(史料集二、八二頁)。「当(とう)廻り田新田壱村(いっそん)はすなわち祖父太郎兵衛(そふたろべえ)開基にして」からはじまるこの議定では、斉藤家を中心とした開発以来の村の歴史がまとめられ、なかでも「祖父太郎兵衛働(はたらき)を以て所々(ところどころ)より出百姓相勤(あいつと)め、廻り田新田壱村の取り立て候事に候」と、廻り田村の秣場から、出百姓による集落を作るように川崎に命じられて以降、太郎兵衛の活躍によって出百姓が集まり、廻り田新田が「壱村」となったことが確認される。しかし、開発から時間も経ち、その歴史がおろそかにされているので、あらためて村の歴史をを確認し、廻り田新田へ出てきた年数記録や由緒などにより、家の序列を定めることが約束されている。そして、続く連名では、連名の順のはじめの方が上座で、以下、記載の順序が序列を示すことが記され、最初に「当村開基太郎兵衛事忠兵衛」に連なる三代目までの忠兵衛の名が記され、続いて「開基忠兵衛より屋敷地所譲受(ゆずりうけ)に付地類(つきちるい)」と、忠兵衛から屋敷地所を譲り受けた庄兵衛の名が記される。この両名の名主・組頭に続けて、出百姓の年代と、「開基忠兵衛分家」「廻田村名主九兵衛より屋敷地所名頭字譲(ながしらあざゆずり)」など、家柄とを組み合わせた村の序列が示される。こうして、本村から独立して独自の名主を獲得し、年番期を経て名主家と組頭家が決まり、村の歴史にもとづく序列が定まっていくのである。