廻り田新田のようすを最初に記した村明細帳(むらめいさいちょう)は、延享三年(一七四六)のものである(東村山市小町家文書)。未だ家数三軒、人口八人からなる小さな村であり、「出百姓の外本村(ほんそん)にて持ち添えに所持」と、出百姓以外に、本村の人々が持ち添えで土地を所持している状態であった。しかし、僅かに開かれた耕地では、小糠(こぬか)を肥料に、大麦・小麦・稗(ひえ)が作られている。次の村明細帳は寛延二年(一七四九)のもので(東村山市小町家文書)、家数は六軒、人口は一七人に増えているが、いまだ本村の持ち添え場が村の大半を占めている。馬も二頭おり、耕地も増えているが、職人・商売人はおらず、市場もない。宝暦九年(一七五九)の村鑑帳(むらかがみちょう)では、農間稼ぎとして、女は薪を取り、男は薪炭を江戸へ送り、年貢の足しにしているとあり(東村山市小町家文書)、林畑の多い廻り田新田では、林業も貴重な収入源であったことがわかる(後述)。最寄りの市場は所沢であった。本村からの独立がはじまった明和五年(一七六八)になると、村明細帳も廻り田新田に残されるようになる(史料集一、一四九~一六九頁)。