廻り田新田の生業と風景

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廻り田新田の生業は、独立後も畑作であり、大麦・小麦・稗・粟が基本的な作物である。そのほか、天保年間(一八三〇~四四)からは、鈴木新田田用水(たようすい)の余水(あまりみず)を利用して斉藤家などが田を開発している。また、分水を利用して、斉藤家・山田家が水車経営をしており、小麦を粉に挽(ひ)いているほか(第二章第七節、第三章第一節)、文政期以降は養蚕にも従事し、幕末期からは製茶もはじめている。これらの経営は両家の経営にとって大きな収入源になっている。また、文化一〇年(一八一三)には、村内に居酒屋もできたようだ(史料集一九、二四七頁)。
 廻り田新田の生業として大きな位置を占めていたのは、林業である。文久三年(一八六三)の村絵図と(斉藤家文書)、明治七年(一八七四)の地引絵図をもとに(斉藤家文書)、廻り田新田の風景を概略化した図1-49をみると、廻り田新田には、いまだ多くの「野(芝地)」と「林」が残されていることがわかる。廻り田新田北部の林は、「山」とも呼ばれており(口絵8)、玉川上水沿いの植木や、小川新田村境の植木とあわせて、廻り田新田の材木は、大きな収入源となっていた。具体的な材木経営のようすはわからないが、屋敷林や林畑の杉や檜(ひのき)・樫(かし)を、「山主」の廻り田新田の百姓が売却していた記録が残されている(史料集一九、二三七頁)。天保期には(斉藤)弥兵衛が炭屋として、松平筑後守(まつだいらちくごのかみ)(正名(まさな)、旗本・御側御用取次(おそばごようとりつぎ)等歴任)に御用炭(ごようすみ)を納めており、材木のほか、炭を作り、江戸の武家屋敷にも出入りしていたようだ(史料集一九、二五四頁)。
 
廻り田新田土地利用図
図1-49 廻り田新田土地利用図

 廻り田新田は、開発の経緯から、村内の大部分を未開発地(芝地・林)として残したまま検地を受ける。その後、出百姓とともに耕地の開発も進むが、明治初年にいたっても、村の大部分は芝地・林として残されており、廻り田新田の人びとは、その林を利用して、生業を営んでいたのである。