廻り田新田の生業として大きな位置を占めていたのは、林業である。文久三年(一八六三)の村絵図と(斉藤家文書)、明治七年(一八七四)の地引絵図をもとに(斉藤家文書)、廻り田新田の風景を概略化した図1-49をみると、廻り田新田には、いまだ多くの「野(芝地)」と「林」が残されていることがわかる。廻り田新田北部の林は、「山」とも呼ばれており(口絵8)、玉川上水沿いの植木や、小川新田村境の植木とあわせて、廻り田新田の材木は、大きな収入源となっていた。具体的な材木経営のようすはわからないが、屋敷林や林畑の杉や檜(ひのき)・樫(かし)を、「山主」の廻り田新田の百姓が売却していた記録が残されている(史料集一九、二三七頁)。天保期には(斉藤)弥兵衛が炭屋として、松平筑後守(まつだいらちくごのかみ)(正名(まさな)、旗本・御側御用取次(おそばごようとりつぎ)等歴任)に御用炭(ごようすみ)を納めており、材木のほか、炭を作り、江戸の武家屋敷にも出入りしていたようだ(史料集一九、二五四頁)。
図1-49 廻り田新田土地利用図 |
廻り田新田は、開発の経緯から、村内の大部分を未開発地(芝地・林)として残したまま検地を受ける。その後、出百姓とともに耕地の開発も進むが、明治初年にいたっても、村の大部分は芝地・林として残されており、廻り田新田の人びとは、その林を利用して、生業を営んでいたのである。