一般に注目される点が、近世の寺院や僧侶には寺請制(てらうけせい)と呼ばれる制度上においても大きな役割をになったことである。これは僧侶が当時の人びとの人別管理を中心的にになう制度である。とくに、当時の人びとがキリシタンでない旨を僧侶が証明することになった。このような僧侶の役割もあってか、当時の人びとは一度、ある寺院の檀家となると離檀(りだん)が困難であるとする認識(離檀困難観)も存在していた。
さらに寺院を考えるうえでは、本末制(ほんまつせい)という寺院の寺格のあり方もふまえておく必要がある。端的にいえば、本寺(ほんじ)-末寺(まつじ)というかたちで寺格が定められ、末寺は本寺からさまざまな規制を受けていた。市域の小川寺(臨済宗)の例(図1-50)では、月桂寺(げっけいじ)(市ヶ谷)、さらに鎌倉の円覚寺が本寺に該当する。末寺の僧侶は、本寺等で修行した人物が原則的にになうことになり、村の外部出身者が僧侶になる例がみられた。つまり、小平市域に限らず多くの寺院は遠隔地に立地した本寺の規制を受けつつ、地域で生活する人びとと関係を結んでいたことになる。
図1-50 小川寺 (平成24年8月撮影)
なお、明治以前の僧侶(浄土真宗を除く)は原則的に妻帯をしていなかったことも、現在との違いである。