神社の役割

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一方、近世の神社についても寺院と同様に、地域と不可分に存在してきた。多くの人びとは毎年のように実施してきた鎮守の祭礼にかかわりをもちながら、その「神」との結び付きを意識してきたのではなかろうか。
 当時の神社を理解するうえで留意されるは、その管理者が神主の場合も多いが、僧侶や修験が別当(べっとう)となりかかわることである。また神主を置かないで村持ちや百姓持ちの小祠(しょうし)、各家々が屋敷神を祀ってきたこともある。
 このほか、小平市域では、「石塔ヶ窪(せきとうがくぼ)」や「一本榎(いっぽんえのき)」の名称のように宗教性を感じさせる場所がある。「石塔ヶ窪」は水が沸くような窪地に「石塔」が建っていたことを想起させるし、「一本榎」は樹木信仰ともいうべき問題をふくんでいるように考えられ、熊野宮(くまのぐう)(小川)のあり方とも不可分である(後述)。そして僧侶が村の外部から就任するのが趨勢なのに対して、神主は世襲が一般的である。これは多くの百姓層と同様の相続形態であることを示している。
 また近世における神主は、京都の吉田家などから、神道裁許状(しんとうさいきょじょう)という免許状を受けることを原則としていた。吉田家は、神主への免許状を発給することから、本所とも称され、全国の中小の神主編成をになっていた。一方、神主側は免許を受けるために金銭を納めることになり、自ずと村側の協力が必要になった。このようなあり方は、小平市域の神明宮(小川村)の例でも確認できる(図1-51)。神社をみるうえでは、神主の活動とともに、それを支える村のあり方、そして本所と評される吉田家などとの関係などにも注目しておく必要がある。

図1-51 神明宮 (平成21年9月撮影)

 以上、寺院・神社をみる視点を述べてきたが、小平市域は新田村であることにも留意しておく必要がある。とくに、当地では開発にともなう人びとの入植によって、新田に寺院や神社が建設されている。そこで開発が寺社のあり方に、どのような影響をもっていたのか、あるいは寺社側が開発に、いかに関与したのかという視点も持ちあわせる必要がある。さらに当時の人びとが、自らの住居する村に寺院や神社を創建させることについて、どのような認識があったかもふくめて新田における寺社の存立事情を述べていくことにする。