明暦二年(一六五六)以降、小川村は多くの人びとが入村してくることで整備がすすむ。これを契機に作成されたのが「入村請書」(以下、括弧とる)である(図1-53)。入村請書は他村から小川村へ入村するにあたって作成された証明書にあたる。明暦期から寛文期(一六五五~七三)にかけての入村請書をみると、入村者は小川家との間で入村請書を取りかわしている。つまり、開発当初のこの時期においては、開発名主(小川家)が入村する人びとの人別管理にあたっていたことをうかがわせ、まだ村内において寺院の存在がみられない。
図1-53 入村請書
寛文4年3月「着(差か)上申一札之事」(史料集12、p.214)
入村請書では、おもに五点の確約事項が記される。①入村者が小川村に入村する状況を示し、入村者の身元を証人らが保証していること。②入村者は問題がない者であること。③入村者の屋敷については小川家の指示に従うこと。④入村者が御伝馬を勤めるために馬を持つこと。⑤入村者がキリシタンでないこと。
そして、入村請書のなかには、「息滅共(そくめつども)」を小川村の寺社に頼むことが記載され、それに関連して「寺請状(てらうけじょう)」の発給の旨が記されている(後述)。ここで「息滅」の意味から考えると、息と滅がそれぞれに意味を有し、「息」が息災という用語として、「滅」が滅罪という用語にあたると推察される。つまり息災=さまざまな祈願行為、滅罪=人をとむらう行為を入村者は小川村の寺社に依頼したことを示す。小川村への入村者は入村請書を通じて「即滅」を小川村の寺社に依頼する旨の内容を記している。また他所(他寺院)から「息滅」を受けないことも記される。これらのことが、当時の入村者が寺院に期待した社会的役割であったことになる。
ただし、入村百姓が小川村の寺社に「息滅」を依頼しても、寺院が創設されていなければ、実際には遂行不可能である。新田の安定的な展開を目指すのであれば、小川家らの有力層には寺院を必要とする気運が生みだされたと想定できる。つまり、開発にともなう入村百姓の増加にともなって、村側が寺院を必要不可欠な施設として認識したとみられる。そこで、つぎに小川寺の創建年次を念頭において、「寺請状」の問題について考えてみたい。