二つの菩提寺

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寛文四年(一六六四)の入村請書には、小川寺の記載が確認できる(図1-53)。これは小川村上町の茂右衛門らが小川家へ出した一札であるが、茂右衛門らがキリシタンでない旨が記されるとともに、小川寺の檀那であることが記されている。
 なお小川寺の創建年次が、寛文八年とするものがあるが、入村請書では寛文四年以前の創建を想起させる。さらに寛文一〇年以降の入村請書には、小川寺が明らかに確認できるようになり、「菩提寺」という文言も散見される。この頃にいたると、小川寺が同村の菩提を弔う「菩提寺」とする認識が生まれている。
 一方、延宝八年(一六八〇)には、小川村の三郎右衛門が小川家宛に手形を出している。このなかでは「当所妙法寺を菩提に頼入申し候」とあり、妙法寺を菩提寺とする記載が確認できる。また、このなかでは「寺請状」の内容を妙法寺がになっていることもわかる。つまり、「寺請状」とは、キリシタンでないことを示し、「息滅」を受けることを寺院が証明したものといえるだろう。二つの寺院が、同村の人びとの「菩提」を弔う菩提寺となっていることがわかる。
 このほか、元禄期まで時期がくだると、同村内において「菩提」を小川寺、「息災」を社家に依頼する史料も確認できる(史料集一四、七七頁)。小川寺以外に社家の存在も注目されるが、「菩提」や「息災」という文言が定まりをみせるようになり、寺院や宗教者の活動が定着している。