元禄四年(一六九一)、両寺院と小川村の間で、小川寺・妙法寺のそれぞれのあり方が決められている。その際、両寺院と小川村との間でのさまざまな事情が示されている(史料集一四、六八頁)。このうち、①小川家は両寺院の開基檀家にあたること、②小川村内部で小川家の居住地を境界として檀家を分けていたこと、③今後は小川寺が檀家寺としての機能をもつこと、などが掲げられている。
①については、同家が両寺院の成立に深くかかわっていたことを示している。また②についても、同家が寺院とのかかわりが深いことをうかがわせる。この二点は村内における開発名主としてのあり方の一面として注目できる。③は、この元禄期の決定が妙法寺の小川村内における立場の後退と関連した内容にあたる。つまり小川寺が実質的に村内で唯一の寺院として再編されていく契機にもなっている。なお、妙法寺後退の経緯は、妙法寺の住職交替時において、同寺の本寺と村側が対立したことが大きく、人びとが妙法寺の檀家から離れていくことにつながった。妙法寺のような、地域に展開する多くの寺院は、村と本寺の間でその管理運営をめぐってむずかしい立場にたたされる場合があった。その後、妙法寺は榎戸新田との関係を深めていく。
図1-54 妙法寺 (平成24年8月撮影)