小川新田開発と一本榎

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享保期における小川新田の開発にも、小川寺僧侶(省宗和尚)および神明宮神主(宮崎家)が関与している。たとえば、「一本榎」や「石地蔵」のあった場所とのかかわりがある。のちに「一本榎」の地には熊野宮が整備され、「石地蔵」は墓所とする旨が示される。「一本榎」については、人びとの樹木信仰ともいうべき宗教性を感じさせ、そこへ社(やしろ)が建立されたと考えられる。一般に榎を境界とする認識は、近世のほかの例にもみられる(後述)。また「石地蔵」については、のちの平安院の場所にあたる可能性が高い。平安院の立地場所は、小川村からみて小川新田の入口にあたる。小川新田の開発の東西両側に寺社を配置したことになる(図1-55)。なお、平安院の寺号は、小川寺の本寺にあたる月桂寺が「平安窪」に位置したことにちなんだとする指摘もある。

図1-55 平安院 (平成24年8月撮影)

 境界としての「一本榎」のあり方について補足しておこう。享保七年(一七二二)、弥市(小川家)が新田開発を願った史料の一部には、開発の範囲をめぐる記述が確認できる。ここでは当初の小川村の開発範囲は、「一本榎」までとしていたが、享保期まで、「一本榎」までの開発にはいたらなかったという。つまり当初、村の開発地の計画について、西部は多摩川上水、野火止用水の堀分けまで、東部は「一本榎」までを範囲とするものであった。また、これまで「一本榎」までの開発を試みたが、伝馬御用等が忙しく、開発にいたっていない旨が述べられている。概して、開発地は自然条件に規定されるが、「一本榎」を村の領域に定める認識が、村側の意向として認められる。
 「一本榎」の場所について、さらに言及してみたい。宝永元年(一七〇四)、神主宮崎主馬(しゅめ)が「杉立木」を購入したことを示す史料が伝来している。
 この史料は宮崎家が享保期の新田開発以前より「一本榎」の場所に関与していたことを示すものである。したがって、明暦時点から確認はできないが、遅くとも宝永期には「一本榎」として認識されていた場所に、神主の宮崎主馬が「社」を整備していったことになる。この場合の「杉木立」は、すでに享保期以前に「一本榎」の地に何らかの「社」を建立するための「用材」として理解できる。新田開発にともない「一本榎」の地には、熊野宮が整備されていくことになる。