図1-56 神道裁許状
享和2年2月「(神式着風裁許状)」(宮崎家〈熊野宮〉文書)
ただし、文政一二年(一八二九)の棟札写しによると、つぎのようにみえる。棟札の表面には「熊野三社大権現」の文言がみえ、裏面には「壱本榎神社」とみえる。「一本榎」の文言は、吉田家から受ける史料にはみえないものの、当地においては社号として意識されていたことをうかがわせる。「一本榎」が、先述したように同社の成立事情と不可分な問題として認識されていたことになる。つまり当地の社号は、地域において二つの社号が並存していたことになる。
また、『風土記』でも当地に「一本榎」が存在していたことを掲げている。したがって、当社は当地の開発地の条件に由来するかたちで「一本榎」を社号として想定しつつ、そのうえに吉田家から「熊野宮」の免許を受給していたことになる。吉田家の社号認定には、一部地域側との認識の違いがあることも認めておくべきであろう。なお文久元年(一八六一)、宮崎家は「稲荷大明神」の管理についての免許を吉田家から受けている(図1-57)。
図1-57 稲荷神社関係免許状
文久元年9月「(稲荷大明神神号許状)」(史料集14、p.148)