小川村では小川寺の僧侶のあり方をめぐって、さまざまな意見を述べている(史料集一四、九五頁)。当時の僧侶の求められる人物像を示しており、注目してみたい。主な要点は以下になる。
①僧侶は葬礼や仏事を手厚く行い、寺中の管理を村と相談の上で行い、積極的に寺院管理をすること。
②無用の殺生などを慎み、朝夕に鐘をつく。布施(ふせ)を集める際には、可能な限り控えめにすること。
③隠居僧は、村方騒動や仏事へ関与しない、特に現住職との間でその立場を勘案すること。
②無用の殺生などを慎み、朝夕に鐘をつく。布施(ふせ)を集める際には、可能な限り控えめにすること。
③隠居僧は、村方騒動や仏事へ関与しない、特に現住職との間でその立場を勘案すること。
それぞれを整理してみると、寺院運営を村側に開示し、村に得心させることが要点となる。つまり僧侶には村内の意向に応える立場が求められていた。また僧侶には「清僧」ともいうべき人物像が求められた。なお②の点について、小川寺へ鐘が寄進されたことと関連して興味深い。鐘自体のもつ宗教性も想起されるが、僧侶の活動のなかに鐘をつく行為があると認識されていることは注目される。とくに朝夕に鐘をつく行為は、村内における「時」の管理にもつながる行為としてみることができよう。
そして、この認識を示す過程で小川村は小川寺の省川和尚を理想の僧侶像として提示している。さきに述べたように享保期の開発事情に省川和尚が関与をしていたことを勘案してのことであった。省川和尚は、地域の要望に積極的にこたえてきたことが理想的僧侶として認識されていたことになる。村にとっては、僧侶への期待は大きく、寺院と僧侶が単純にセットで意識されていたわけでない。僧侶には、寺院を中心的に管理、あるいは盛りたてていく存在として大きな期待がよせられている。