このような人びとの意識のもとに存立していた小川寺であれば、現在、地域に関する多くの古文書などが伝来していたと考えられる。しかし、残念ながら文政一〇年(一八二七)七月二二日、僧侶の出府中、火災に遭っている(史料集一四、一〇三頁)。
火災の事情を記した史料によれば、この当時、小川寺境内には、本堂庫裏(くり)一体の建造物・米櫃小屋(こめびつごや)・物置家・土蔵・下屋が存在していた。また、火の手は小川寺棟上まで煙がのぼり、本尊や過去帳(かこちょう)を取り出せないほど、大変な火災であったという。村内の者が消火活動にあたったが焼失したという。
一般に、寺院において本尊や過去帳は、火災の際にも持ち出されることが意識付けられていることが多いが、それもかなわない火災の規模であったことをうかがわせる。また、過去帳までも焼失したとすれば、そのほかの文書類も焼失したことが想定されよう。この文政一〇年の火災は、小川寺に限らず、村にとって貴重な「記憶」を失う大きな火災であったとみられる。