引寺完遂までの経緯-引寺反対の動向-

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このような確約が示されながらも、泉蔵院の引寺は周辺の新田以外の寺院の反発によって訴訟となっている。泉蔵院の引寺、つまり新たに寺院が創建されることで、それまで檀家をもっていた寺院側は、離檀(りだん)(檀家から離れること)する百姓の出現を問題視したためである。先述したように当時において離檀が、困難であったこともふまえて、この問題がどのように解決されたかをみてみよう。
 延享二年(一七四五)、正福寺(現東村山市)と新田百姓の間で訴訟となる。両者の意向をそれぞれ整理すると、以下のようになる。
①新田百姓の意向 新田百姓は既に離檀を決めていたが、それにもかかわらず正福寺が五軒の百姓(伝兵衛等)の宗門帳の印形を取る行為に及んだとする。そのため新田百姓は、印形のある「書物」(宗門人別帳)の返却を代官川崎平右衛門定孝へ願った。なお同年には、僧侶が新田百姓の過去帳や墓所の改めを実施したという。
②正福寺の意向 新田百姓らが離檀することは悪例となり、今後の寺院相続に支障をきたす。また離檀が公的に認定されれば、それが悪い先例となる。

 なお同年、新田名主伝兵衛が久米川村梅岩寺に対しても同様の訴訟をおこしている。また野口村正福寺・梅岩寺が報恩寺・新田百姓の名主伝兵衛らを訴えている。正福寺以外にも、「離檀」がともなう引寺には反対の立場をとる寺院がみられた。
 つまり、この訴訟の背景には引寺にともなって離檀を遂行する百姓があり、一方でそれまでの秩序を保とうとする寺院側という構図があった。そして、当時は離檀が困難であったことを考えれば、寺院側の主張が通りそうであるが、結果からみてもわかるように百姓らの主張が通っている。