その最も大きな理由は、引寺にともなう離檀は一般的な離檀とは違う、いわば特例の案件として処理されたことにある。しかしながら留意されるのは、当案件は公的には離檀として処理されなかったという点である。当案件が一般的な離檀と同様に扱うことになれば、寺院側の主張にあるように、これ以降の寺院相続に支障をきたす可能性があったためであろう。その意味でも、当案件が特例とされたことは注目される。
そして、引寺にともなう離檀の許認可には、幕府の寺社奉行が関与していたことも重要である。つまり、地域間の意見調整では、引寺が進展せず、当時の政権が引寺を政策として遂行することが、引寺完遂の要だったのである。また、引寺政策は寺社奉行が各仏教宗派の上に立ちつつ、そこで主導性を発揮している。一般に新田開発は、徳川吉宗の政策として取り上げられるが、当案件をみる限り開発にともなう引寺政策もあわせて考えておくべきであろう。なお引寺完遂までのタイムラグについては、元文三年(一七三八)以降の飢饉などの状況も加味するべきである。引寺の遅延が寺社奉行の姿勢というよりは、新田側の事情にあったことが考えられよう。