さて、泉蔵院の引寺が進展すれば、本寺の報恩寺から僧侶が入ってくるのが通例であるが、実際には関野新田(現小金井市)の真蔵院(真言宗)から留守居(るすい)をむかえている。
寛保四年(一七四四)、泉蔵院の引寺が遂行されたが、延享二年(一七四五)時点での泉蔵院には住職が配置されていない。ここであらためて寛保四年の大沼田新田と報恩寺の引寺条件を確認してみたい(表1-35No.4)。このなかで、本寺の許可がない場合、留守居をおくことは禁止とされる。この条目を重視すれば、泉蔵院への留守居は報恩寺の許可があったことになる。なお真蔵院は『風土記』によれば、延享二年、武州御嶽山(みたけさん)の世尊寺塔頭(子院)(たっちゅう(しいん))から関野新田に引寺されたことになる。なお、世尊寺は当時の御嶽山を管轄しており、御嶽山側の合意をもとに引寺が進展していることになる。また引寺年次の記事がおおむね正確であれば、真蔵院の引寺が泉蔵院の運営にも関係をもったことになる。
また、延享二年に注目すると、これは先述した正福寺僧侶と新田百姓(伝兵衛ら)との間で訴訟となった年である。延享二年時点において、泉蔵院は依然として留守居をおいており、整備されていなかったことになる。