泉蔵院の由緒と引寺経緯の整理

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引寺が進展した宝暦二年(一七五二)、泉蔵院の由緒書が作成されている。内容は、これまでの引寺経緯を記しながら、泉蔵院の開基檀那を當麻弥左衛門・同伝兵衛とし、両家には引寺の功績により、戒名が「永代居士」「大姉」を認めることが記されている。なお、このことは両家が泉蔵院と密接な関係をもっていたとともに村内でも主導的な立場にあることを示している。以下、由緒書の内容から引寺経緯を中心にみておきたい。
①名主伝兵衛が関野新田の真蔵院快明と対談し、報恩寺門徒泉蔵院の引寺を決める。さらに伝兵衛・快明は報恩寺運承とも対談した。
②引寺について、大沼田新田は深大寺の添簡(そえかん)により代官川崎平右衛門役所に訴え、さらに報恩寺及び伝兵衛は寛永寺の役人にあたる執当(しっとう)、寺社奉行へ願書を提出した。
③今寺村内の泉蔵院の状況が調査された上で、延享元年、川崎平右衛門の「差紙(さしがみ)」(召喚状)により伝兵衛らが江戸へ出向いた。そこで寺社奉行本多紀伊から引寺が許可された。
④引寺許可があり、新田百姓はそれまでの寺院から離檀を試みたが反対にあう。そこで延享二年、寺社奉行が調整にあたった。正福寺の触頭(ふれがしら)芝金地院、徳蔵寺の触頭品川東海寺などが、末寺の離檀反対の動きをおさえた。なお、触頭は、寺社奉行から出る触を、個々の末派寺院に取り次ぐ有力寺院のことである。

 以上のことから、①にあるように、当初は関野新田の真言宗僧侶が関与し、一時的に留守居を勤めていたことがうかがえる。また報恩寺が引寺に関与することで、その本寺の深大寺がかかわり、③④のように最終的には寺社奉行の意向により引寺が完遂している。また、寺社奉行が触頭レベルの寺院をおさえたこともうかがえる。
 また一〇年後の宝暦一二年、引寺の実施についての伊奈役所宛の御尋書が作成されている(史料集一四、二六七頁)。伊奈代官にも引寺政策は継続されていたことになる。ここでも強調されるのは、寺社奉行、とくに大岡忠相が引寺許可に関与した点である。さらに、宝暦一四年、「当間山泉蔵院宝池院由緒略記」が「当寺第一世現住収慶代撰焉」によって作成されている。この段階の泉蔵院は留守居の状況を抜け出し、正式に僧侶(第一世収慶)が就任している。ここでも泉蔵院の寺歴が記されるが、あらためて延享元年に寺社奉行より「引寺号免許」を受けたことが確認できる。