先述した宝暦一二年の伊奈役所宛御尋書の末尾には、興味深い記事がある。これは梶野新田(かじのしんでん)(現小金井市)で引寺願いが出され、その掛りの者が対応していることが記されたものである。梶野新田は、元文期に新田検地がなされているが、宝暦期に入っても引寺がなされないことが知られる。引寺の遅延事情については検討を要するが、宝暦期に入ると、梶野新田において引寺の動きが本格化していたことをうかがわせる。それにしても泉蔵院について記されている史料に、何ゆえ、梶野新田の引寺の例が引用されたのであろうか。これは武蔵野新田内部における新田間での連携があったことをうかがわせる。先に取り上げた関野新田の例をとあわせて考えてみる必要があろう。