泉蔵院・稲荷社の普請とその管理

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また稲荷社は、明治以前には泉蔵院に隣接し、鎮守として村内の百姓がかかわる施設でもあった。その普請にあたり、多くの人びとが金銭等を出資している。
 まず稲荷社の建立に関与した人びとの存在に注目する。表1-36は、周辺村の大工の関与を示すもので、工事に関与した述べ人数及び給金が記されている。建設資金の一部が大工の「寄進」とされ支払われていないが、建設をになうこと自体が「寄進」になっているのであろう。
表1-36 泉蔵院再造立大工木挽賃払料書上
出身村担当者担当人数寄進分残分賃料備考
大岱村伊兵衛227人11人216人4両3分700文末尾に「外ニ拾壱人」とあり
野口村彦市190人11人179人4両300文
同所伊衛門74人5人半68人半1両2分250文
南野中茂兵衛45人3人42人3分900文
南野中伊右衛門17人なしなし1分150文
荒幡村七衛門108人11人
「まけ」とあり
97人2両900文「木挽 荒幡村」とあり
合計661人
宝暦9年3月「大工木挽仕賃払帳泉蔵院再造立」(当麻伝兵衛家文書)より作成。

 また表1-37は、杣人(そまびと)の金銭コストを書き上げたものである。この史料自体が伝兵衛家に伝来することによって、伝兵衛が泉蔵院の建設の中心人物であったことが判明する。このほかにも、伝兵衛家には、稲荷社設立に関与したことを示す史料が伝来する。たとえば宝暦一一年(一七六一)、泉蔵院建設に伴い、「松立木」が入札により、周辺村の百姓へ落札され、これに伴い伝兵衛が代金を受納している。また伝兵衛家には、「稲荷様木寄覚」(天明六年〈一七八六〉)という史料も伝来する。この史料では、冒頭に軒割による「ふさ」などの負担が記され、建築資材の品目が書き上げられている。一般に新田開発は、投機的な意味をもつが、寺社整備にも金銭等の調達が必要であった。金銭の融通を行いながら、稲荷社が整備されていくことがわかる。
表1-37 そま取経緯費一覧
所在村百姓名金銭
大岱政右衛門764文
なしなし1両1分484文
大岱政右衛門100文
上ノ半兵衛775文
宅部久兵衛1両
あらはた七右衛門2分853文
当村弥七1貫464文
上ノ半兵衛1貫742文
合計 16両9貫394文
宝暦11年3月「泉蔵院山代金証文」(当麻伝兵衛家文書)より作成。

 また泉蔵院の什物(じゅうもつ)をみていくと、「稲荷幟(いなりのぼり)」が確認される。泉蔵院が中心となって稲荷社の神事が行われていたことをうかがわせる。このほか、什物のなかには、多くの百姓が三〇〇文から五〇〇文の金銭を出資していることも判明し、ここでも伝兵衛が建設資金の取りまとめを行っている。稲荷社の管理には、泉蔵院及び村の主導的な立場の弥左衛門や伝兵衛がかかわっていた。