第一段階 円成院の引寺が整備される段階。
第二段階 矢沢藤八が失脚するが、寺社奉行への絵図の提出などがあり、円成院の整備が進展する段階。
第三段階 円成院・宝林院の檀家が確定していく一方で、延命寺などが整備されていく段階。
第一段階は、当初の野中新田の寺檀関係が円成院を軸に進められる時期とした。大堅が開発に主導的な立場にあったことも確認できる。享保八年(一七二三)になると、開発にともなう出資金不足となり、野中善左衛門が関与する(No.6)。この過程において円成院は開発地の一二分の一を割り当てられ(No.7)、同一〇年には円成院の引寺や宝林院などの境内地が確定していく(No.8)。
第二段階(享保一一年~同一五年以前)は、それまで開発主導者の一人、矢沢藤八が経済的に追い込まれる時期とした(No.9)。この時期においても、円成院を中心として引寺が進展している。享保一一年一一月、出百姓は、四か所の社地・寺地を円成院支配として取り立てることとし、円成院の本寺海福寺に絵図面等の提出を行っている(No.11)。さらに、寺社奉行黒田豊前へも上谷保村の円成院の絵図を提出し、同一二年五月一四日、黒田の屋敷において「引寺号」が許可され、名主・組頭が連印している(No.12)。同一三年、円成院は寺地・宮地の寄進を受け、その旨等の由緒書を海福寺宛に作成している(No.13)。同年、地蔵堂を建立し、円成院支配とする旨を村役人らが申し出している(No.14)。このように円成院の整備が進展していく。
第三段階(享保一五年から同一九年)は、享保一五年二月、貫井村の出百姓は宝林院、上谷保村・国分寺村の出百姓は円成院ということで檀家の「交換」(最寄替)を実施した時期とした(No.16)。同年一〇月には、開発地の「交換」も実施されており(No.17)、一部百姓の転居(No.18)も認められる。
この三段階目の時期は、小平市域において「かけこみ引寺」ともいうべき状況がうかがえ、市域の寺院(延命寺など)が成立していく時期にあたる(後述)。つぎに、第三段階以降の状況についてみていこう。
表1-38 野中新田組分け関連年表 | |||
No. | 年次 | 主な内容 | 注目事項 |
1 | 享保7年10月5日 | 新田惣鎮守の夢想をみる。新田開発人は矢沢藤八・円成院大堅が中心となる。 | 円成院が野中新田の開発に関与することが示される。 |
2 | 享保7年10月8日 | 藤八ら五人が開発許可を岩手藤左衛門に願う。 | 代官と開発の方向を確認する。 |
3 | 享保7年10月8日 | 江戸商人らを含めた合計11人により開発を進めることを定める。 | 江戸の人々と藤八らの社会関係が確認される。 |
4 | 享保7年12月1日 | 円成院を新田の寺院として取り立て、菩提と祈願を依頼する。また百姓が離旦しないことを示す。 | 円成院が野中新田の菩提寺としての立場を確認する。 |
5 | 享保8年6月 | 上記(No.4)の旨を小前層にも守らせる。円成院へ土地を割り渡すことを示す。 | 円成院への土地寄進が定められる。 |
6 | 享保8年6月 | 開発出資金不足に伴い、円成院・藤八らが野中善左衛門に出資を依頼する。 | 野中善左衛門の影響が強まっていく契機となる。 |
7 | 享保8年6月3日 | 出資人11人がそれぞれ土地を分割する。さらに円成院の地も1つ分割する。 | 土地分割の連判証文は円成院がおさめる。 |
8 | 享保9年~10年 | 開発地の割り渡しが進む。同9年9月円成院・毘沙門天が引越し、同10年鳳林院の境内が定め置かれる。 | 新田内部で黄檗宗寺院の体制が固まっていく。 |
9 | 享保11年5月 | 藤八が米代金上納を滞らせる。 | 矢沢藤八の失脚が認められる。 |
10 | 享保11年6月 | 宗門人別帳の管理を円成院に依頼する。 | 引寺文言が確認できる。 |
11 | 享保11年11月 | 円成院・観音堂・多門天・鳳林院の引寺に伴って境内絵図が作成される。 | 本寺海福寺が円成院の寺地などの状況を確認する。 |
12 | (同12年~同13年) | 寺社奉行の黒田豊前から引寺が許可される。 | 寺社奉行の関与により引寺が進展する。 |
13 | 享保13年12月 | 円成院の由緒が本寺海福寺へ示される。 | 本寺の関与により引寺が進展する。 |
14 | 享保13年11月 | 国順庵院らが円成院へ地蔵堂建立の書付を差し出す。 | 円成院の堂管理が進展する。 |
15 | (同13年5月9日) | 府中明光院の旦那となろうとする者が現れる。 | 府中との繋がりが確認できる。 |
16 | 享保15年2月 | 宝林寺・円成院の檀家の最寄がえが行われる。 | 新田内部の組分けが進展する。 |
17 | 享保15年10月 | 谷保・国分寺は円成院、貫井は宝林院とし宗門人別帳の管理を担う。それに伴い、35町歩の最寄替えが行われる。 | 寺檀関係と組分けが関連していることがうかがえる。 |
18 | (同18年2月) | 長兵衛の引越しが認められる。 | |
19 | (同19年10月) | 玄要庵が円成院へ寄進される。 | 円成院の堂管理が進展する。 |
20 | 享保19年12月 | 延命寺へ菩提を依頼する者が現れるが、宝林院のままと定められる。 | 延命寺の建立が認められる。 |
21 | 元文1年5月 | 蔵本院が竜蔵院へ移動するに伴い証文を出す。 | |
享保7年10月「武蔵野新田儀諚書幷願書諸証文之控」(史料集12、p.97)より作成。 |
図1-60 円成院 (平成24年8月撮影)