享保一六年(一七三一)、円成院において開山二七回忌法要が開催されている。この法要にあたって、さまざまな人びとが名前を連ねている。円成院二代目住職をはじめとして、上谷保村得全庵や当地の居住者とみられる修験らの記載がある。「東林庵 瑞岩」「国順庵 東海」「鳳林院 祥関」「柏禅庵 浄庭」「玄要庵 良田」「竜蔵院 修験」である。このほか、江戸の自徳院尼が確認でき、円成院を取り巻く住職や宗教者らがみえる。また、野中新田の元文検地帳の記述で述べたように(本節4(4))、円成院の野中新田への展開には、これらの人びとが新田開発にかかわり、土地をひらいて居住するにいたったことと関連している。
そして、鳳林院のように黄檗宗寺院として整備される例も確認できる一方で、「玄要庵」などと記される庵(あん)として存立していく施設もあった。円成院は、これら寺院や僧侶の中核施設として存在していたことになる。