子院・庵の存在

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子院や庵の存在は、ほかの史料でも確認できる。「証文之目録」(元文四年〈一七三九〉)及び円成院境内絵図を取り上げ、円成院とその周辺の僧侶などに注目してみたい(史料集一四、一七九頁)。
 「証文之目録」(以下目録とする)は、元文四年に纏められた証文類の目録である。史料表題のみが記されたもののため、個々の証文は確認することができないが、元文時点での円成院を取りまく状況をうかがうことができる。表1-39は、目録の史料タイトル及び要点を一覧にしたものである。また、この史料の冒頭には、「黒ぬり証文箱之もくろく」と記され、「いろは」順で史料が書上げられているが、表1-39では便宜上数字に直している。
表1-39 証文之目録一覧
No.史料タイトル注目点
1宝永元年円成院寺号相州より譲り受候証文寺号の由来表記。
2寅年発端人より寺宮建立極証文宮の建立表記。
3辰年割渡前連衆諸事定証文
4午年藤八より源右衛門へ役渡候証文
5午年引寺願之節旦中より取置候証文
6午年両野中社地寺中等相定候絵図絵図作成の表記。
7午年引寺願之節寺地堂地之訳黒田殿江差上候絵図之控寺社奉行の黒田の表記
8午年南野中宮地寺地定置証文之控
9申年□□願上候節本寺江被取候由諸書控
10申年長久保旦中妙光院へ菩提頼候付名主へ入置候証文当寺へ源右衛門より渡置妙光院の表記。
11申年国順坊より入置願書尤本尊寄進之事国順坊の表記。
12戌年両寺限之証文 上坂殿迄出之証文通成ル
13寅年海岸寺□左衛門出入扱ニて済諸役人扱証文印形有り海岸寺の表記
14戌年堀端三十五町と本通南側と旦方町歩替之証文
15□通七郎兵衛発心願書 施主 彦八政右衛門
16巳年南野中鎮守鳳林院名所御書替之願書役所出候控鳳林院の表記。
17辰年竜蔵院移ニ付世話人衆より証文竜蔵院の表記。
18巳年七郎兵衛より地所寄進証文 役人衆より加印
19午十月榎戸と分入候付印形相改両院江銘々渡候節控印形榎戸分入の表記。
20午極月仙宝院名所寄進証役判不残あり仙宝院の表記。
21午正月検地帳通御除地等本庵名庵書上候控庵書上の表記。
22寅十月玄要地所寄進証文加印共玄要の表記。
23酉年南野中六左衛門より鳳林院へ壱町弐反歩地所寄進鳳林院の表記。
24海福より末寺票一通
鈴木新田名前帳 弐冊 三十郎皆済請取
同所永方請取 弐通
その他、保管史料についての内容。
25辰年円成院境内鈴木徳善庵地観音堂地之惣絵図徳善庵の表記。
26辰年毘沙門社竜蔵院地蔵堂地附東海坊地竜蔵院の表記。
27東林庵社地仙宝院地所共ニ仙宝院の表記。
28未正月十日玄要庵地替合分共絵図 役判不残玄要庵の表記。
元文4年2月「箱ニ入置仮証文之目録」(史料集14、p.179)より作成。

 No.1からNo.9にかけては、円成院の成立及び引寺までの経緯を記している。No.1では、円成院の寺号を相州から譲り受けたこと、No.2では、寺院と共に宮の整備が行われていること、No.7の黒田殿は、当時の寺社奉行に該当し、寺社奉行が引寺に関与したことがわかる。また、「寺地堂地之訳」とあるように、「堂地」までも許可されたことがわかる。No.10は、一時的に府中の妙光院との軋轢を示している。
 そして、円成院周辺に居した宗教者については、以下のような例がみられる。たとえばNo.11では、国順坊の存在が記され本尊寄進の旨がわかる。No.17・20では、それぞれ竜蔵院・仙宝院がみられる。No.17では、竜蔵院に対して世話人の存在が確認でき、No.20では仙宝院へ土地が寄進される旨がうかがえる。さらにNo.22では「玄要」の記載がみえ、「玄要庵」と推察される。つまり玄要庵への土地寄進も同様にみられる。玄要庵地は、人びとの菩提を弔う等の理由から寄進された地であることもわかる。
 また修験竜蔵院は、九月三日の鎮守祭礼に関与していた(No.26)。この内容に関連して、祭礼に関する「札紙のり入」八〇枚程を竜蔵院へ渡したとする記事や、赤飯を鎮守に備えること、祭礼の前日に、しめ竹・茶・油などを竜蔵院へ渡したとする記事がある(史料集一四、一八二頁)。そして、竜蔵院は当日の早朝に祈念拝借するという。円成院に従属するような立場で修験が存在していたことをうかがわせる。