四つの組と寺院

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つぎに野中新田における組分け(与右衛門組・善左衛門組・利左衛門組=鈴木新田・六左衛門組)とそれにともなう引寺のあり方を取り上げる。
 野中新田は享保九年(一七二四)に南北に分けられ、同一七年の時点で四つの組にわけられる。それに対応するように組々に寺院が建立された。表1-40は、野中新田の組分けを整理し、それぞれ組ごとに寺院をあてたものである。また新田への引寺をめぐっては、先の第三段階とした享保一九年の記事を確認したい。
表1-40 野中新田寺院一覧及び変遷
No.村名享保18年以前の寺院名(宗派)享保19年以降の寺院名(宗派)
1与右衛門組円成院(黄檗宗)円成院(黄檗宗)
2善左衛門組同上(同上)延命寺(真言宗)
3利左衛門組
(鈴木新田)
宝林院(黄檗宗)、一部円成院。海岸寺(臨済宗)
宝寿院(真言宗)
4六左衛門組同上(同上)宝林院(黄檗宗)
史料集14より作成。

 当初、野中新田全域にわたっては円成院が「菩提」全般をになうことが確約されていた。結果として、享保一九年(一七三四)以降、表1-40のように円成院が独占的に野中新田の「菩提」をになわなかったことをみれば、当初の円成院と新田との間での確約は反故にされたことになる。ここでは四寺院の基本的な性格について取り上げておきたい。
 表中No.1の与右衛門組は、享保一九年以降も円成院(黄檗宗)が関係を強めていく。No.2の善左衛門組は、文字通り善左衛門(野中善左衛門)中心の組であり、享保一九年以降、善左衛門は延命寺(真言宗)を創建させている。これに対して、一時的に円成院(黄檗宗)側も訴訟にもちこみ抵抗するが、同一九年以降、延命寺が整備されていく。つまり、善左衛門組は黄檗宗ではなく、真言宗と寺檀関係を構築していくことになる。No.3の鈴木新田(利左衛門組)には、海岸寺と宝寿院が建立されている。鈴木新田においても善左衛門の影響力が確認され、享保一七年時点では同新田において利左衛門より主導的な立場にあった。つまり同一七年時点において、善左衛門組・鈴木新田は、善左衛門の影響下になっていた。このような善左衛門の立場が、当地の寺檀関係にも影響しているとみられる。海岸寺の開創経緯は、利左衛門の動向と不可分な関係にあった。
 一方、宝寿院は、府中妙光院の塔頭から引寺されたと伝わる。先の表1-39のNo.10でも妙光院の動向がうかがえる。No.4の六左衛門組は、享保二〇年以降も黄檗宗寺院と寺檀関係を構築していった。六左衛門組は現在の国分寺市に位置し、小平市域では与右衛門組のみが黄檗宗円成院と寺檀関係を形成したことになる。