宝林院と鳳林院

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ここで「宝林院(ほうりんいん)」の寺号について取り上げておきたい。現在、鳳林院は小平市域に存在していないが(図1-62)、享保一〇年代には「宝林院」の存在が史料上で確認できる。この「宝林院」が六左衛門組(現国分寺市)の鳳林院と同名してよいのかはむずかしい問題である。この点について若干言及しておきたい。まず別寺院とすれば、以下のことが想定される。
①享保一九年時点において、宝林院が鈴木新田に位置し、貫井村の出百姓と寺檀関係を構築していた。
②後に海岸寺等が建立されたことにより宝林院が廃寺においこまれた。したがって同一九年以降、鈴木新田から寺跡が抹消されていく。
③六左衛門組に位置した鳳林院は、その後も黄檗宗寺院として存立する。
②と③の考えを取れば、宝林院は「廃寺」、鳳林院は存立していくことになる。なお先述したように、享保一五年(一七三〇)時点で円成院と宝林院が檀家の「交換」を行っている。この時点でも宝林院は貫井村出百姓=利左衛門組(鈴木新田)らと関係を構築していた。

 また二つの寺院が同一寺院とすれば、宝林院が六左衛門組に存立したことになり、史料的に課題を残す。一方、宝林院の存在を示す史料のなかで、興味深い由緒記事がある(深谷家文書)。この史料によれば、宝林院には武州三峰山(みつみねさん)(秩父市)でそれまで不明となっていた「宝物」が伝来しているとする。野中新田と三峰山との関係は、後に述べるように海岸寺との関係が知られるが、既に宝林院にもあったことになる。当地と三峰山の関係を考える上で注目されるが、いずれにしても、鳳林院・宝林院の問題は野中新田の組分けと不可分な問題であった。
 また享保一九年は、海岸寺が引寺を本格化する年次でもある。このように経緯を整理すれば、享保末期においては依然として、引寺を行うことが可能な情勢であり、享保末期まで寺院の統廃合も含めた状況が存在したことになる。そして、元文期(一七三六~四一)には検地が実施され、新田の寺社のあり方が定まっていく。


図1-62 鳳林院 (平成24年8月撮影)