鈴木新田海岸寺の引寺

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表1-41は、海岸寺の引寺経緯を整理したもので、以下表を参照に同寺院の成立事情について述べていく(図1-63)。
表1-41 海岸寺引寺経緯一覧
No.表題年次差出人→宛名人主な内容
1一札之事享保19年7月利左衛門他二名→応首座越中国泰寺末寺三峰山の海岸寺から引寺を願う
2一札之事同上越中国泰寺恵元院→南泉寺応首座海岸寺を国泰寺末寺から南泉寺末寺に変更する。
3(海岸寺寺歴書付)享保20年3月国泰寺留守居恵元院→南泉寺国泰寺留守居が海岸寺の引寺を認定する。
4(上坂安左衛門引寺許可書付)記載なし記載なし上坂安左衛門が引寺を許可する。湛円が引寺に関与する。
5乍恐以書附奉願上候元文1年10月妙心寺末谷中南泉寺御弟子禅育→寺社御奉行所御役人引寺完遂を願う。
6奉願口上之覚元文1年南泉寺弟子禅育→松源寺執事禅師引寺完遂を願う。
7譲り渡申証文之事元文4年9月谷中譲り主南泉寺・同閑居加印息心庵→牛込済松寺海岸寺を譲り渡す。
8支証元文4年譲り主南泉寺・加判陽岳寺・同息心庵→牛込済松寺海岸寺を譲り渡す。
9支証記載なし息心庵曇渓→南泉寺曇洲座元30両で海岸寺を譲り渡す。
10寺鋪永代譲り渡一札之事(元文4年)南泉寺曇洲→牛込済松寺海岸寺を譲り渡す。
11譲り渡申畑地添書一札之事明和5年9月神戸周悦→済松寺御弟子円備壱町壱反歩畑地譲り渡す。
文政5年閏12月「新田開発一件」(史料集14、p.160)より作成。


図1-63 海岸寺山門 (平成24年8月撮影)

 鈴木新田は、享保一九年(一七三四)以降、谷中南泉寺(台東区)に働きかけ、越中国泰寺(こくたいじ)の末寺、三峰山の海岸寺を引寺しようとした(No.1・2・3)。享保二一年、上坂安左衛門の許可があり、引寺が決まる(No.4)。当初、黄檗宗寺院円成院が優位な形で野中新田での「菩提」を担うことが確約されていたが、海岸寺の引寺が行われている。またNo.4では、三峰山の観音院に湛円和尚が直に出向き、引寺を求めている。No.5では、「道心者(どうしんもの)」が三峰山の海岸寺に居住しており、檀方がいない状況も判明する。
 ところで当該期の三峰山は、観音院(かんのんいん)(真言宗)を中心とした組織が形成されていたことが知られる。つまり、三峰山は真言宗及び修験が山内を固めていたのである。一八世紀前半段階の三峰山における禅宗の展開は、真言宗や修験によって、かなり制限を受けていたことになる。また、先述した御嶽山から引寺された例(関野新田の真蔵院)も知られている。一八世紀に入り、地方霊山ともいうべき一山寺院の組織化が進展するなかで、二つの例は帰属の不明確な寺院が引寺の対象になったことが認められよう。このような状況のなかで、海岸寺は三峰山から鈴木新田に引寺されたことになる。
 なお、鈴木新田では、氷川神社が鎮守となっているが、後に稲荷社も勧請されている。この勧請に携わった鈴木家には、妻恋稲荷の略縁起が伝来している。稲荷信仰が新田へ浸透していることがわかる。