①元文四年(一七三九)時点で海岸寺が南泉寺の「控」となっていたが、不如意のために海岸寺を建立することが困難になった。
②海岸寺譲渡にともない、何らかの支障がある場合、南泉寺らが海岸寺譲渡への保証をになうことを進言している。
②海岸寺譲渡にともない、何らかの支障がある場合、南泉寺らが海岸寺譲渡への保証をになうことを進言している。
①の「控」文言が、当時の海岸寺の状況を示したものといえるが、この時点まで依然として海岸寺の本堂などの建立がなされていない可能性が高い。享保一九年(一七三四)には、三峰山からの引寺が実施されるが、元文四年時点では「控」の状況になっていた。このように野中新田においては享保末年までに引寺をひとまず決着し、元文期をむかえたことになる。そして元文期以降、引寺された寺院を、いかに管理していくかという課題に鈴木新田側や寺院の本寺側が直面したとみられる。つまり享保末期が引寺を進めるうえで重要な時期であったことが、これらの状況からわかる。
なお、嘉永期(一八四八~五四)に海岸寺は「黒衣(こくい)」状況から金銭を上納することで新たなに格式をえている。つまり、一八世紀段階(開発時の段階)の海岸寺の整備は限定的なものといえるが、表1-41末尾にあるように明和期に土地の寄進がなされ、寺院が整備されていく。したがって、海岸寺は享保末期に引寺の許可がおり、元文期四年以降整備が進展し、明和期(一七六四~七二)に土地寄進があり、嘉永期にいたって新たな格式をえたと見ることができる。