以上、開発と寺社の問題、特に寺院の成立事情を中心に述べてきた。それぞれの共通点と相違点に留意しつつ、引寺の持つ意味について示してみたい。
まず、大沼田・野中新田の共通点として、当時の吉宗政権が引寺の許可に裁定をくだしたことがあげられる。このことは、引寺が単なる寺院政策ではなく、新田開発のなかに存在した一つの政治課題であったことをうかがわせる。大沼田新田の例では、それまで檀家をもっていた寺院が反目し、訴訟となった。新田百姓が安定的に集落をかたちづくっていくうえで寺院や神社を必要としていたことは、いわば常識として認識されていたにしても、引寺完遂は容易なことではなかった。また大沼田新田の例でもみたように、個別の宗派のみでは、引寺を遂行するのは困難であり、その裁定をくだしたのは幕府寺社奉行であった。寺社奉行が、宗派をこえた諸課題に取り組み、引寺を完遂させていったことになる。野中新田の例では集落の広範囲さもあり、時期をへるに従ってさまざまな思惑が存在し、組(村)ごとに寺院を求める気運が強まった。この場合でも、引寺完遂には当該期の政権の後援がみられた。ただし、組(村)ごとの意向を沿うかたちでの後援であり、当初の開発計画を進めたものでなかった。
一方、小川村の場合、小川新田を成立させていくが、ここでは平安院や熊野宮の整備を進めた。比較的、スムーズな開発事情がうかがえるが、小川新田は大沼田新田と同様に一村に一寺院・一神社を置き新田をかたちづくった。これは野中新田の例との違いが明らかである。
また、引寺成立以降の寺院運営は、それぞれの事情に規定されているが、野中新田における円成院の例のように、多くの「禅」の書籍などをもち、閲覧の場であったことがみられた。その意味では、開発にともなった寺院の誕生は、吉宗政権の政策と不可分な関係をもちながら、新たな地域形成の拠点となりえた。
最後に引寺の成立条件を整理してみると、大沼田新田でみたように、新田周辺の寺院との間での調整が必要であったことがあげられる。また、一部には三峰山や御嶽山のような一山組織との調整もみられた。開発にともなう引寺の成立には、新田以外の地域との間で主体的な調整を前提にしつつ、寺社奉行に象徴される幕府権威を取り付けることが重要であった。このような在地側の主体的な動きが、多くの武蔵野新田では寺院が存在しなかったにもかかわらず、小平市域の村々に寺院が成立した背景にあたろう。当地に入植してきた人びとの寺社への意識の高さをみておくべきだろうし、寺社の整備を通じて新田村のまとまりを構築していったといえよう。