本章第一節・第二節で述べてきたように、現在の小平市域にあったすべての村は、近世に開発された「新田村」で構成されている。そしてこれらの村は、近世の「新田村」の典型的な事例として、本書巻末の「参考文献・史料」で〈全体にかかわるもの〉として示したような、さまざまな書籍で紹介されてきた。たとえば、小川村の場合、開発され、割り渡された短冊型の地割がこの時期の新田の地割を典型的に示す事例として取り上げられ、また、大沼田新田は、新田開発の類型の一つである「村請新田(むらうけしんでん)」の典型的な事例として取り上げられている。このように、現在の小平市域にあった村は、地理学や歴史学における各テーマの代表事例として紹介され、そして論じられてきた。
新田開発の類型とは、開発を主導した開発人のあり方を基準に、歴史研究で論じられてきたものである。たとえば、土豪(どごう)小川氏が主導した小川村は、「土豪開発新田」に、大岱村(おんたむら)(現東村山市)を本村とする大沼田新田は、「村請新田」にあてはめられた。村請新田は、武蔵野の新田村に多いとされる類型でもある。そして、江戸の町人などがかかわった野中新田は、「町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)」にあてはめられた。新田開発の類型はこのほか、百姓が個々に行う村内の小規模な開発である「百姓個人請新田」、百姓や町人が複数の開発仲間を結成して行った「百姓寄合新田」、藩が主導した「藩営新田(はんえいしんでん)」、藩士に開発を実施させた「藩士知行新田(はんしちぎょうしんでん)」、幕府の代官が適地を見立てたうえで行った「代官見立新田(だいかんみたてしんでん)」、などがある。