今井九右衛門忠昌

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小平市域で最初に開発された小川村も、十八代官とのかかわりのなかで開発がはじまる。小川村の開発の経緯を書き上げた宝永五年(一七〇八)の記録によれば、「往還(おうかん)の人馬救わせ自分の入用金を以って御新田取り立て指し上げ申し度き旨、五拾三年以前申の年今井八郎左衛門(いまいはちろうざえもん)様御代官所の節願い奉り候へば、早速仰付(おおせつけ)なされ」とあるように(史料集一二、二〇頁)、明暦二年(一六五六)、小川九郎兵衛(くろべえ)が代官今井八郎左衛門(九右衛門・忠昌(きゅうえもん・ただまさ))に開発を願い出たことから、小川村の開発がはじまる。今井家は、旧武田家臣の系譜の十八代官の一人で、祖父昌吉(まさよし)の代より代官を勤めていた。今井は、開発期の小川村にも足を運んでいたようであり、寛文二年(一六六二)の小前(こまえ)百姓が小川家を訴えた訴状には「御代官今井九右衛門殿新田へ御越(おこ)し成(な)られ、百性(ひゃくしょう)ふびんに思し召され、なわ竹山御林(たけやまおはやし)にて百性壱人に付き風おれ松弐本宛(にほんづつ)下され候」とあり、開発初期の物資が不足しているなかで、今井は、新田までやってきて、百姓一人につき風折れ松を二本ずつ支給するなどのほか、駄賃銭や夫食米(ふじきまい)などの救恤(きゅうじゅつ)をほどこしていたようだ(史料集一五、二頁)。