図1-65 今井家・中川家略系図
小川村は、中川の支配時代の寛文四年(一六六四)、最初の検地を行っている。検地を行ったのは、中川の手代の中村文右衛門(なかむらぶんえもん)と吉野又兵衛(よしのまたべえ)である(小川家文書)。手代の吉野については、先の訴状に「御手代吉野又兵衛様は右九郎兵衛と御縁者に御座候」と、小川九郎兵衛と縁者であるとされており(史料集一五、二頁)、多摩地域の土豪と、多摩地域を支配していた代官所の職員には、人的なつながりがあったことをうかがわせる。中川の支配は万治元年から天和二年(一六八二)までの二四年間に及ぶ。この間、検地が三回(寛文四・寛文九・延宝二年)実施されるが、寛文四年の仮検地と、延宝二年(一六七四)の新開地の検地が支配代官の中川によって行われる一方、寛文九年(一六六九)の本検地は、支配代官ではない岡上次郎兵衛景能(おかのぼりじろべえかげよし)と近山与左衛門正友(ちかやまよざえもんまさとも)(ともに八王子十八代官)によって行われており、多摩地域の新田開発が八王子を拠点とした十八代官の管轄下で行われていた一方、本検地はより客観性の高いかたちで行われていたことがわかる。小川村はこうして村の姿を調えることになるが、一方で、この時期は、開発主の小川家と出百姓との関係の矛盾が、激しい村方騒動となって現れた時期でもあった(本章第一節)。小前百姓は小川家に対し、開発主として領主(りょうしゅ)のごとく振る舞い、年貢以外に小川家が独自に税を取っていることに加え、代官から下賜(かし)された救恤をことごとく強奪していることなどを訴えるが、その際、手代の吉野又兵衛が小川家と縁者で癒着しており、小前百姓の言い分が聞き入れられないと訴えている(史料集一五、二頁)。今井・中川の支配の実態は史料的な制約があってよくわからないが、一般的に、近世初期の代官は、地域の土豪的勢力と密接な関係を持ち、土豪の影響力を利用して開発や普請、地域の経営を進めたとされる。一方でこの関係は不正の温床となり、幕府の取る年貢以外に、土豪が新たに税を課したり、代官の年貢収納が滞るなどの事態を引き起こし、いわゆる「悪代官」イメージの原形となっている。開発期の小川村を取り巻く状況は、近世初期の代官をめぐる問題を象徴するものとも考えられる。
この訴訟は泥沼化するが、訴訟に際し小前百姓は「八王子今井九右衛門屋敷迄参るべく候」と、八王子の今井の陣屋まで押しかけると主張する一方、同文で「大勢(おおぜい)の百姓江戸へ参(まい)り候義迷惑致(めいわくいた)すべくと存じ、八王子へ相詰(あいつめ)候様申し遣わし候」と、訴訟のために江戸へ押しかけることも示唆(しさ)していることから、当時、江戸にも支配の拠点があったことがわかる(史料集一五、一三頁)。この訴訟は、結局延宝八年(一六八〇)に、江戸で勘定頭(かんじょうがしら)の寄合(よりあい)のもと、裁許がくだされる(本章第一節)。
そして裁許の翌々年の天和二年(一六八二)一〇月、中川は突然代官を罷免され、翌一一月に切腹を命じられる。処罰の理由は「これ身の行ひ正しからざるがうへに、臟罪(ぞうざい)あるをもてなり」「職務の作法悪しくしばしば租税を滞り、しかのみならず其行状(そのぎょうじょう)よろしからずむね上聞(じょうぶん)に達し、御気色をこうぶりて切腹」というものである(『寛政重修諸家系譜』『東京市史稿 市街編第一〇巻』)。「臟罪」とは不正に蓄財することであり、そのほか、普段の行いに問題があることや、年貢を滞納したことなどが五代将軍綱吉(つなよし)の耳に入り、切腹を命じられている。小川村の支配や訴訟が中川の処罰と直接関係があったかどうかはわからないが、中川の罷免と処刑により、中川による支配は終わりをむかえる。中川の罷免は突然だったようで、天和二年一二月一七日に、小川村から「御代官様御付き遊ばされず候」とする訴状が出されており(小川家文書)、中川の罷免に伴って小川村は一時的に支配代官のいない状態となっている。
この時期、代官の罷免は中川にとどまらず、延宝から元禄期(一六七三-一七〇四)にかけて大量の代官が処罰され、今井をはじめ八王子代官はほぼすべて、切腹・遠流(おんる)・絶家(ぜっけ)・小普請入(こぶしんいり)などの処罰を受け、八王子から陣屋はなくなる。中川の処罰は、八王子を拠点に、在地の土豪と密接な関係のもとで地域を開発し、支配して行く時代の終わりを象徴するものでもあった。