勘定所系代官の登場

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表1-42 近世初期支配代官一覧表
代官名支配期間前歴後歴家禄備考
今井忠昌1656~1658.7.3勘定死去200俵八王子十八代官
中川八郎左衛門1658~1682.10.23罷免、切腹八王子十八代官
近山正友1682~1691死去150俵八王子十八代官
設楽能久1692~1700.7.25勘定・勘定組頭死去400俵
窪島長敬1700.7.29~1702.3神田館勘定役・勘定・残物奉行・川船奉行・御金奉行・勘定組頭・死去300俵
清野貞平1702.3.2~1705作事奉行支配・勘定・漆奉行・書替奉行・隠居120石80俵
林正長1706~1713桜田館勘定役死去100俵
林正紹1710.6.13~1713.7.23桜田館勘定役小十人・代官100俵
古川氏成1713.7~1715.1.21支配勘定・勘定死去150俵
堀江成芳1715.8.5~1720.5.1小十人死去150俵
朝比奈資致1720.6.13~1722.6.18大番・納戸番納戸番210石余
『寛政重修諸家系譜』、小川家文書などより作成。

近山から支配を引き継いだ設楽勘左衛門能久(したらかんざえもんよしひさ)は、これまでの八王子系の代官とは異なり、三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)によって取り立てられた勘定所系の役人の家に生まれ、四代家綱(いえつな)・五代綱吉と、勘定として地方諸業務に従事していた。先述の通り、八王子系の代官は綱吉政権期に一斉に粛正されており、かわって、勘定所系の役人が代官となって地域支配に従事するのである。
 設楽の後任の窪島一郎兵衛長敬(くぼしまいちろうべえながのり)は、綱吉が将軍継嗣となる以前の館林藩主(たてばやしはんしゅ)時代、綱吉の江戸屋敷の神田館(かんだやかた)で、勘定系役人として地方業務に従事していた。その後、綱吉の将軍就任にともなって幕臣に編入され、勘定として川除普請(かわよけふしん)に従事し、その後残物奉行(のこりものぶぎょう)・川舟奉行(かわふねぶぎょう)・金奉行(かねぶぎょう)・勘定組頭を歴任したのち代官となっている。
 窪島の後任の清野半右衛門貞平(きよのはんえもんさだひら)は、漆奉行・書替奉行(かきかえぶぎょう)などの勘定所系のポストを歴任したのち代官となる。設楽・窪島・清野の三人が小平市域を支配していた期間は、ちょうど綱吉の治世にあたる。綱吉は村の生活とも密接にかかわる法令を出しているが、これらの触は、代官を通じて村にもたらされた。生類憐れみの令に関連して、市域に残る最も古い触は、元禄五年(一六九二)に設楽が発した鉄砲打禁止等の触書で、以後設楽・窪島・清野は、捨て馬禁止など一連の生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)を小川村に発している(小川家文書)。
 清野の後任の林甚五右衛門正長(はやしじんごえもんまさなが)は、六代将軍家宣(いえのぶ)が将軍継嗣となる以前の甲府藩主(こうふはんしゅ)時代、家宣の江戸屋敷の桜田館(さくらだやかた)で勘定系の役人を勤めていた。その後、家宣の将軍就任にともなって幕臣に編入され、代官となっている。宝永七年(一七一〇)からは息子の兵右衛門正紹(へいえもんまさつぐ)も、見習いとして小川村の支配に従事している。林の後任の古川武兵衛氏成(ふるかわぶへえうじしげ)は、支配勘定・勘定と、勘定所の実務官僚として昇進し、東北地方の検地などに従事したのち代官となる。古川の後任の堀江半七郎成芳(ほりえはんしちろうなりただ)は、勘定系の家を嗣ぎ、小十人(こじゅうにん)を勤めたのち代官となる。堀江の後任の朝比奈権左衛門資致(あさひなごんざえもんすけよし)はやや経歴が異なり、大番系(おおばんけい)の家に生まれ、納戸番を勤めたのちに代官に転じている。