享保改革期に小平市域を最初に支配したのは、岩手藤左衛門信猶(いわてとうざえもんのぶなお)である。岩手は紀伊藩士岩手信安(いわてのぶやす)の家に生まれ、勘定系の旗本岩手家の養子となる(養子先の岩手家も元紀伊藩士の家系)。家督相続後はしばらく役に就いていなかったが、大岡の地方御用拝命と同時に関東筋新規代官(かんとうすじしんきだいかん)に抜擢(ばってき)され、町奉行の指揮のもとで多摩地域の支配に従事する。小川村などそれまでにひらかれていた多摩地域の古村(こそん)・古新田(こしんでん)を管轄する一方で、岩手にとっての重要な任務は、武蔵野の新田開発に取り組むことであった。七月の高札以前から、小川村や貫井村(ぬくいむら)(現小金井市)などからは開発願いが出されていた(史料集一二)。一方で、多摩地域では入会の秣場(まぐさば)をめぐる争論が頻発しており、その秣場を開発するためには、地域の実情に応じた調整が必要であった(史料集一二、五八頁)。岩手は、小川村や谷保村(やほむら)(現国立市)などに赴いて開発願いの実地調査を行う一方、多摩地域の村々に、開発や秣場に関する意見を諮問している(史料集一二、五八頁)。秣場を開発しても生産が可能かどうか、地域の実情にもとづいて開発政策を進めていたのである。入間郡や多摩郡北部の村々からは、開発反対願いが岩手あてに出されており(本章第二節6)、武蔵野新田開発は、代官が民意を調整しつつ取り組んだものでもあった。
岩手は、武蔵野新田としてひらかれた小平市域の新田の開発開始に密接にかかわっている。すなわち、貫井村からの開発願い(鈴木新田)を享保七年(一七二二)八月に、小川村からの開発願い(小川新田)を同年九月に、谷保村願人からの開発願い(野中新田)を同年一〇月に受理している(史料集一二、五七・八〇・八七頁)。開発願いを受けた岩手は、配下の町奉行所与力をともなって開発願地へ赴き、願人との調整や測量、杭打ちなどを行っている(史料集一二、八八頁)。
その後岩手は、享保九年五月、南武蔵野で開発希望のあった各新田に土地を割り渡している。また、大沼田新田に関しても、詳細は不明だが、享保九年五月にいったん開発地を割り渡している(本章第二節5)。村内が開発に賛成・反対で二分していた廻り田村では、双方が岩手にあてて嘆願書を出しており、そののち賛成派の斉藤太郎兵衛(さいとうたろべえ)が、享保一〇年に、小川村で地割を行っていた岩手を訪ね、開発地の下賜を直談判(じかだんぱん)したことから開発がはじまっており(のち廻り田新田)、小平市域の村々の開発は、岩手をパートナーとして進められたものであった。岩手は、野中新田開発願人の矢沢藤八(やざわとうはち)や、廻り田新田開発願人の斉藤太郎兵衛と、猪狩を通じて知己であるなど(本章第二節6)、多摩地域の村役人層とのパイプを持っていたと考えられる。
小川村は岩手の前任の代官朝比奈へ、貫井村でも岩手の前任の代官松平九郎左衛門(まつだいらくろうざえもん)に対して新田開発を願い続けていたが、採用されなかった。しかし、支配代官が岩手に代わったのちの一連の運動で小川新田・鈴木新田の開発が実現しており、多摩地域における新田開発は、勘定所系代官から大岡配下の役人へ管轄が代わることによってはじめて、実現したのである。
このように、小平市域の新田開発は、小川新田・鈴木新田・野中新田・廻り田新田・大沼田新田ともに岩手の管轄下で行われ、岩手は町奉行所地方御用掛役人(じかたごようがかりやくにん)を引き連れてたびたび新田に出て実地調査、願人との折衝、開発地の割り渡しを行っていた。また、後述する通り、岩手の後任の野村(のむら)・小林(こばやし)の新田支配が頓挫すると、その管轄地域を引き受けるなど、岩手は武蔵野新田全体を管轄し続け、享保一七年、在任中に没する。