岩手に代わって小平市域の新田村を管轄したのは、野村時右衛門(のむらときえもん)と小林平六(こばやしへいろく)である。いずれも出自や経歴は不明だが、野村は享保七年(一七二二)に岩手が小川村の支配代官となった際、代官交代の触を発しており(史料集一八、一〇三頁)、また町奉行所与力(よりき)にも名前がみられることから、この頃、町奉行所与力として、岩手の下役になっていたと考えられる。両名は享保一二年より新田開発方役人(しんでんかいはつかたやくにん)となり、連名で武蔵野新田を管轄している。小平市域では廻り田新田(享保一三年に年貢皆済(ねんぐかいさい))、大沼田新田(享保一四年に年貢割付(ねんぐわりつけ))、小川新田(享保一四年に開発場酉御取箇割附之事(かいはつばとりおとりかわりつけのこと))などの記録に名前がみられる。岩手は、小川村ほか多摩地域の古村・古新田は引き続き管轄し続けており、一方、代官ではない新田開発方役人が武蔵野新田を支配する、二元体制が取られることになった。当時の老中酒井忠音(ろうじゅうさかいただおと)の記録によると、幕府は武蔵野新田のために一三五〇両余を用立てたうえで、当時新田を管轄していた野村・小林に運用を任せ、野村・小林は、農具料(のうぐりょう)・家作料(かさくりょう)としてそれを支給した。幕府は、新田に出百姓が住みつき、生産に従事することによって生産力を増加させることを企図していたため、野村・小林は、居住のために家作料を、生産環境の整備のために農具料を下賜する形で救恤策を実行したわけである(「酒井家記録(二)」)。
そして、鍬下年季(くわしたねんき)をすぎた新田に対し、勘定所の役人を引き連れ、武蔵野惣案内(そうあんない)の小金井村(こがねいむら)関勘左衛門(せきかんざえもん)と貫井村の鈴木利左衛門(すずきりざえもん)(この二人については後述)両人の案内のもと、本年貢額(ほんねんぐがく)を決定している。しかし、鍬下年季の間の救恤策によって村が開発されたことを前提として割り付けられた年貢額は、実際の開発の進展具合や生産量に対して過重であった。この結果、開発間もない新田では年貢を納められない百姓が多く現れ、百姓が困窮していることが問題となる(本章第二節2・6)。そして、享保一四年一二月に、両名は苛政(かせい)を理由に免職され、以後、支配地域は岩手に戻されている。岩手は「未進金伺(みしんきんうかがい)の上半分(うえはんぶん)差し免(ゆる)し、反取永元(たんどりえいもと)の通り引き下げ」と、滞納分の年貢を半額に免除したうえ、年貢額も引き下げたという(「酒井家記録(二)」)。開発期の新田では、手厚い保護によって生活・生産基盤を確立させないと、そもそも村として成立しえない。一方で、新田開発は幕府の増租を企図した政策であり、生産基盤が確立したならば、出資に見合うだけの税を徴収しなければならない。野村・小林による、手厚い保護と高額な年貢という、一見矛盾するかにみえるこの政策は、武蔵野新田開発の問題点の所在を物語っている。