荻原源八郎乗秀

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野村・小林の罷免後、武蔵野新田を岩手と共に管轄したのは、荻原乗秀(おぎわらのりひで)である。荻原は、綱吉期の勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)の息子であり、父の不正により処罰され非役となるが、享保七年(一七二二)に東金(とうがね)(現千葉県東金市)の新田開発を進言して大岡に採用され、岩手とともに、町奉行支配代官となる。野村・小林が罷免されたのち、武蔵野新田は再び岩手・荻原の管轄に戻され、古村・古新田と武蔵野新田の支配は、一元化することになる。武蔵野新田の開発は、岩手が開発を指揮・調整し、野村・小林が生産・居住基盤を作ったうえで年貢額を策定し、岩手・荻原が微修正することによって一段落することとなった。