岩手が在任中の享保一七年(一七三二)に死去したのち、武蔵野新田の支配を引き継いだのは上坂政形(うえさかまさかた)である。上坂は元町奉行所与力で、町奉行大岡のもとで法令の編さんにも従事するなど、大岡の腹心でもあった。なお、岩手が死去する享保一七年までは、小川村と小平市域の新田とは同じ代官の管轄であったが、岩手の死後、小川村は荻原の支配となっており、以後、小平市域は複数の代官に支配されることになる。
上坂のもとで、武蔵野新田開発の総仕上げとして一斉に行われたのが、享保二一年(元文元年・一七三六)の元文検地である。元文検地は、検地奉行(けんちぶぎょう)大岡忠相のもと、上坂と、勘定所の勘定(勘定所の実務役人)長坂孫七郎(ながさかまごしちろう)のもと、上坂の手代と、各新田の有力者が案内として立ち会って実施される。長坂は享保六年に勘定となり、以後、関東諸国で川普請や新田検地に従事しており、勘定所内の新田担当者であった。小平市域の村々では、享保二一年三月二七日から四月一一日の間、小川村に本陣を置き、上坂と長坂の指揮のもと、検地が進められた。そして、元文元年一二月、検地帳が作成され、小平市域の村々は、村として成立するのである。
このように、武蔵野新田は、勘定所と大岡系地方巧者集団(じかたこうしゃしゅうだん)の対立・競合のなかで開発が進む。従来の勘定所配下の代官ではなく、町奉行大岡忠相配下の役人(代官に限らない)が、町奉行配下の与力とともに開発・支配に従事したことが大きな特徴である。ただし、開発が進み、年貢を徴収する段階にいたると、勘定所の経済官僚が検地などに同行しており、最終段階の元文検地にも、勘定所新田担当役人が参加しており、元文検地は、大岡役人集団が勘定所へ吸収されていく前段階のようすを示している。