図1-67 「川崎平右衛門定孝之容」
(世田谷区立郷土資料館所蔵「玉川三登鯉伝」)
上坂の元文検地ののちに武蔵野新田を管轄したのは、川崎定孝(かわさきさだたか)である。川崎は多摩郡押立村(おしだてむら)(現府中市)名主で、江戸での売薬に従事するなど在郷商人的性格も持っていた(大友一雄「武蔵野新田支配政策の特質」)。元文検地後も、武蔵野新田は元文の飢饉(ききん)などにより危機的状況に陥っており、川崎は、この危機を打開するため、元文四年(一七三九)に百姓から新田世話役に登用された。大岡配下の役人には、川崎のほかにも、田中休愚喜古(たなかきゅうぐよしひさ)(もと八王子の百姓、川崎宿問屋場役人)、蓑笠之助(みのかさのすけ)(もと町人)など、いずれも地域の事情をよく知り、農業や普請を知悉(ちしつ)した「地方巧者(じかたこうしゃ)」と呼ばれる人びとが、民間から幕府に登用されている。大岡の武蔵野新田開発は、当初は幕府内の勘定所系ではない人びとを登用し、のちには、民間からも身分をこえて人材を登用した点に大きな特徴がある。川崎は、登用される元文四年以前にも、上坂に対して御用栗林(くりばやし)の増築を献策するなど政策を提言し、実現したうえはそれを請け負うなど、武蔵野新田の経営に積極的に参画している。元文四年の登用は、それらの活動が褒賞され、苗字帯刀を許可されたうえで、武蔵野新田世話役として取り立てられ、武蔵野新田の経営に従事することになったのである。以後、寛保三年(一七四三)までは、上坂配下の新田世話役として武蔵野新田の支配を管轄していたが(身分は手代格カ)、寛保三年(一七四三)からは、上坂から独立し、支配勘定格(しはいかんじょうかく)となって武蔵野新田を管轄する。支配勘定とは勘定所の末端の役人であり、その「格」として、川崎は百姓から幕臣(御家人(ごけにん))となって、武蔵野新田を管轄することになったのである。
川崎は元文四年以降、関野新田(せきのしんでん)(現小金井市)と三角原新田(さんかくばらしんでん)(現埼玉県鶴ヶ島市(つるがしまし))に陣屋を構え、武蔵野新田の実地調査を行う。川崎の配下となったのは、縁戚で鈴木新田名主の鈴木利左衛門・小金井新田名主関勘左衛門・府中番場宿(ばんばしゅく)矢島藤助(やじまとうすけ)・府中町(ふちゅうまち)高木三郎兵衛(たかぎさぶろべえ)・府中新宿比留間宇左衛門(しんしゅくひるまうざえもん)などである。鈴木と関は、享保一四年(一七二九)の新田地割の際にも武蔵野惣案内として名前がみえる。鈴木は自らも開発人として鈴木新田の開発に従事する一方で、川崎の手代として関野陣屋に詰め公事方(くじかた)御用を勤めた。関も同じく小金井新田の開発に従事する一方で関野陣屋で手代として活動するなど、武蔵野新田の経営には、幕府代官と地域との間に、川崎をはじめとする中間的な実務官僚集団が形成され遂行された。鈴木や関は、自身が新田開発に従事しつつ、武蔵野新田全体の経営にも携わることになったのである。このことにより、地域の実情に即した救恤策を取ることが可能になったのである。