川崎が武蔵野新田で取り組んだ新田振興策は多岐にわたる。武蔵野新田は、そもそも生産力の極めて低い地域で、未開発の入会地を切り開いて共同体を作るという、厳しい条件の開発であったうえに、飢饉が頻発するなど「新田退転同前(しんでんたいてんどうぜん)」という状況であった(史料集第一八集、一五六頁)。川崎が登用されたのは、このような過酷な条件の中で地域を成り立たせるようにする方法は、地域を知悉したもののなかからしか生まれないと考えられたからであった。川崎は武蔵野新田を、単に年貢を取れるようにするだけではなく、人びとが住み着いて共同体を形成し、地域の環境にあった作物を生産することによって、持続可能な地域にしようと取り組んだ。川崎の救恤策については、川崎の支配を受けた人びとの言葉から紹介したい。川崎は寛延二年(一七四九)に美濃本田(みのほんでん)代官所(現岐阜県瑞穂市(ぎふけんみずほし))への異動が決まるが、支配を受けていた新田五五か村は、異動の撤回を嘆願する。その中で、川崎の救恤策は、以下のように評価されている(史料集第一八集、一五六頁)。
すなわち、武蔵野新田の村々は、元文の飢饉などにより出百姓が新田を離れざるを得ないような状況にあった。そうしたところ、元文四年(一七三九)八月、川崎が新田の掛りとなり、川崎自身が手代を引き連れて新田の陣屋に居住し、飢餓状態にある人びとの世話をし、百姓たちの民家を見廻り、一人一人の百姓に対し、飢饉の時の心得を言い聞かせ、耕作に励むよう説諭し、怠惰(たいだ)な百姓には利害を説き、励んでいる百姓には褒賞を与えるなど、きめ細かい支配を行ったという。また、武蔵野は広大なので、土地にあった作物を仕付ける必要を考慮し、蕎麦(そば)・薏苡仁(数珠玉鳩麦(よくいにん(じゅずだまはとむぎ))・紫草(むらさき)・蚕豆(そらまめ)・瓜(うり)・西瓜(すいか)、種々の薬草・薬木などの「新田相応の品々」を作るよう、種を分け与えたという。さらに、凶年のための助成として、秋に実が採れるように、屋敷や畑の囲い林として植えるための栗(くり)や竹などの苗木を大量に下賜した。この時植えた木はいまだ小木ではあったが、植え付けや実の収穫の際に老人から子供まで賃労働をすることができたという。そのうえ、肥料を購入するための代金が養料金(ようりょうきん)というかたちで下賜されたため(第二章第三節)、離散してしまった百姓も新田に立ち返り、農業に励むようになった。また、武蔵野は畑作地帯のため、藁草履(わらぞうり)の材料の履藁(くつわら)にも事欠くほどであったが、新田の中でも水田にすることが可能な地域を探し出し、田用水を引いたうえで肥料も貸し渡し、田として生産が可能になった地域があったという。
小平市域でも、大沼田新田では、岩手の支配時代の享保一六年(一七三一)に開かれた田用水があり、川崎支配時代の延享三年(一七四六)に伏せ替えられ、また川崎支配時代には寛保元年(一七四一)に呑用水堀(のみようすいぼり)と田用水溜井(たようすいためい)が、翌寛保二年には、堀井二か所が普請されるなど、川崎支配時代に計五筋の用水にかかわる土木工事が行われている。しかも、これらはいずれも御入用御普請(ごにゅうようごふしん)であり、代官が経費を負担して行われている(『当麻伝兵衛家文書目録』)。
このように、川崎の政策は、地域に密着し、再生産可能な地域作りのためのきめ細かな対応が取られた点に、綱吉期以来の勘定所系の徴税官僚としての代官とは異なる新たな代官としての特徴がみられる。それゆえに、異動撤回嘆願が出され、死去の後は名代官として顕彰されるのである(本節コラム)。この特徴は、寛政改革期に全国的に現れる「名代官」や「名代官像」の先駆的なものでもあった。