図1-68 赤山陣屋絵図 『新編埼玉県史2』通史編4近世より転載。 |
小平市域の支配は、寛保三年(一七四三)に、伊奈半左衛門家八代の忠逵(ただみち)が小川村の支配を川崎から引き継いだのにはじまり、寛延二年(一七四九)には、川崎の異動にともない、小川新田・鈴木新田・野中新田両組・大沼田新田・廻り田新田の支配も川崎から引き継いでいる。以後、小平市域の村々を五代(忠逵/忠辰(ただとき)/忠宥(ただおき)/忠敬(ただひろ)/忠尊(ただたか))にわたり、忠尊が罷免される寛政四年(一七九二)までの半世紀の間、支配している(小川村と大沼田新田は五代、小川新田と廻り田新田は明和七年(一七七〇)より江戸廻り代官支配)。
伊奈氏の支配地域は三〇万石余あり、他の代官が多くても一〇万石程度であるのと比較しても、その広さが際立っている。さらに、伊奈氏は代官としての地域支配はもとより、享保改革以後、鷹場御用(たかばごよう)やさまざまな貸付金、江戸城への上納物などをはじめとする、関東全域を対象とした多種多様な「掛御用向(かかりごようむき)」を一手に管轄しており、その影響力を梃子(てこ)に、筆頭代官という地位に加え、勘定吟味役上座(かんじょうぎんみやくかみざ)や奥右筆組頭次席(おくゆうひつくみがしらじせき)という格式(城中儀礼における席順)を得るなど、特異な地位を築く(太田尚宏『幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域』)。伊奈氏の地域の実情を知悉した民政は、関東の民衆から「関東郡代(かんとうぐんだい)」として慕われる一方、勘定所や経済官僚からは、「伊奈半左衛門ぬるく候」と、経済官僚・徴税官に徹しきらない姿勢を批判されることもあった(大石学『享保改革の地域政策』)。