江戸廻り代官支配の開始

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小平市域の村々のうち、廻り田新田と小川新田が、明和七年(一七七〇)より、伊奈忠敬から江戸廻り代官久保田の支配へと替わり、以後、小平市域の支配は、伊奈の支配と江戸廻り代官支配の二系統となる。江戸廻り代官とは、その名の通り江戸廻りの地域一〇万石以上を支配する代官で、関東では伊奈に次ぐ地位の代官である。通常、諸国の代官を経験し、民政に熟達したものが任じられ、他の代官が許されない布衣(ほい)を着用する格式を許されるとともに、離任後は勘定吟味役や遠国奉行に昇進する場合が多く、代官の極官(ごくかん)ともいうべきポストである(西沢淳男『幕領陣屋と代官支配』)。江戸廻り代官は、時代により違いはあるが、おもに江戸より西北・西南部の地域を支配しており、現小平市・国分寺市・小金井市は江戸廻り代官地域の西端・他の関東代官の支配地域との境界にあたった。
 小平市域を最初に支配した江戸廻り代官は久保田十左衛門政邦(くぼたじゅうざえもんまさくに)である。久保田は代々勘定・代官を勤めた家に生まれ、延享元年(一七四四)に勘定となり、長崎勤務をへて宝暦五年(一七五五)に諸国御料所(ごりょうしょ)の虫附損毛調査(むしつきそんもうちょうさ)に従事し、宝暦六年から代官となる。最初の任地は関東で、その後、陸奥(むつ)・佐渡(さど)の代官をへて明和七年(一七七〇)から江戸廻り代官となる。小平市域を支配しはじめたのはこの時からである。その後安永七年(一七七八)より勘定吟味役、のち布衣を許され、佐渡奉行、勘定奉行を勤めるなど栄達している。なお、支配は伊奈から江戸廻り代官に移るが、養料金については引き続き伊奈が管轄している。
 久保田の勘定吟味役への昇進にともなって、安永七年から支配を引き継いだのは、飯塚伊兵衛英長(いいづかいへえふさなが)である。飯塚は勘定系の家に生まれ、宝暦三年より代官となり、陸奥塙(はなわ)(現福島県白河市)、備中倉敷(くらしき)(現岡山県倉敷市)、摂津大坂(現大阪府大阪市)、信濃御影(みかげ)(現長野県小諸市(こもろし))、関東代官を歴任し、安永七年より江戸廻り代官となり、小平市域では小川新田と廻り田新田を管轄している。その後、天明四年(一七八四)に勘定吟味役に昇進し、留守居(るすい)、佐渡奉行と昇進を重ねる。飯塚の勘定吟味役への昇進にともなって、後任の江戸廻り代官となったのは、飯塚の養子飯塚常之丞政長(いいづかつねのじょうまさなが)である。通常、江戸廻り代官は全国の代官を経験したのちに配属される。この親子での異動は「江戸廻り御代官ハ大役にて」と、江戸廻り代官は大役なのに、若年の政長が江戸廻り代官に抜擢されたのは、「父伊兵衛の子が支配をしたならば、伊兵衛の子といふ所で、百姓共も信服(しんぷく)するであろふとの評議」と、名代官として知られる英長の子ならば、領民も信服するだろうとの理由での抜擢(ばってき)であった(「よしの冊子一一」、西沢淳男『幕領陣屋と代官支配』)。政長は以後、寛政元年(一七八九)まで江戸廻り代官として小平市域の小川新田・廻り田新田を支配し、飛騨郡代(ひだぐんだい)へと昇進している。