伊奈半左衛門の改易と関東郡代の新設

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寛政改革に加え、とくに関東の幕領支配に大きな影響を与えたのが、伊奈氏の改易(かいえき)である。伊奈氏は、天明八年(一七八八)より起こった家中騒動が原因で、寛政四年(一七九二)正月に諸職を罷免(ひめん)され、その後改易される。伊奈氏が管轄していた職掌のうち、養料金などの貸付や幕府鷹場の支配も含む「掛御用向」は、関東代官の大貫次右衛門光豊(おおぬきじえもんみつとよ)と篠山十兵衛景義(ささやまじゅうべえかげよし)に代行させ、約三三万石に及ぶ「地方支配」は勘定所へ移し、同年三月、勘定奉行久世丹波守広民(くぜたんばのかみひろたみ)が兼任するかたちで関東郡代が新設された。関東郡代配下には大貫と篠山に加え大岡源右衛門(おおおかげんえもん)・伊奈友之助(いなとものすけ)・三河口太忠(みかわぐちたちゅう)の計五名の代官が郡代付(ぐんだいづき)として付属し、伊奈氏が代官として支配していた地域の地方支配を担当した。伊奈氏の馬喰町屋敷は郡代屋敷(ぐんだいやしき)と改称されて郡代付代官が配属されるほか、「掛御用向」のうち中核であった鷹野御用(たかのごよう)と公金貸付(含養料金)については、郡代屋敷内に設置された御鷹野役所(おたかのやくしょ)と関東郡代(かんとうぐんだい)附貸附方役所(かしつけかたやくしょ)において、掛代官が管轄することとなった。以上の過程で、関東郡代は、伊奈氏の管掌した広域・多岐にわたる職掌を、五名の関東郡代付代官と郡代屋敷において、幕府勘定所機構へ吸収・機能分化していく。これにともない、小平市域の支配は旧伊奈支配地域の関東郡代付代官と、江戸廻り代官の支配地域が混在し、頻繁に管轄替えが行われるようになる。