文化三年(一八〇六)に二代目関東郡代の中川飛騨守忠英(なかがわひだのかみただてる)が転任すると、関東郡代は廃止される。郡代屋敷は同年に火災に遭い、その後に再建された郡代屋敷は馬喰町御用屋敷(ばくろちょうごようやしき)と改称される。引き続き五名の馬喰町御用屋敷詰代官が勤務したが、同年に二名の代官が相次いで転出し、以後、三名の馬喰町御用屋敷詰代官が関東近郊の地方支配と鷹野役所・貸附役所(かしつけやくしょ)を管轄する体制となる。三名の馬喰町御用屋敷詰代官のうち、大貫光豊にはじまる第一系統の代官は筆頭として貸付役所を統括し、千住(せんじゅ)・品川(しながわ)の貫目改所(かんめあらためしょ)を管轄するほか、他の二名とともに鷹野役所も管轄した。伊奈忠富にはじまる第二系統の代官は、金町(かなまち)(現葛飾区)・松戸(まつど)(現千葉県松戸市)、小岩(こいわ)(現葛飾区)・市川(いちかわ)(現千葉県市川市)の両関所を管轄した。竹垣直清(たけがきなおきよ)にはじまる第三系統の代官は房川渡(ぼうせんわたし)(現埼玉県久喜市(くきし))・中田関所(なかたせきしょ)(現埼玉県久喜市)を管轄した。馬喰町御用屋敷詰代官三名は、関東一〇万石以上を支配する江戸廻り代官とあわせて、経験を積んだ優秀な代官が配属される場所であり、他の代官が許されていない布衣に任じられ、勘定吟味役をはじめとする重職に転任する者も多かった。また、寛政期以降の、博奕(ばくち)の横行や盗賊・無宿(むしゃく)の徘徊(はいかい)、殺人、訴訟事の頻発など在方秩序の混乱に対処するため、文化二年六月に関東代官の早川八郎左衛門正紀(はやかわはちろうざえもんまさのり)・榊原小兵衛長義(さかきばらこへえながよし)・吉川栄左衛門(よしかわえいざえもん)・山口鉄五郎(やまぐちてつごろう)の建議によって、関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)が設置され、四代官の手代・手附が任命される。さらに、文政一〇~一三年(一八二七~二九)にかけて、関東代官山本大膳(やまもとだいぜん)らが中心になって、原則関東全域の村を改革組合村に編成し、関東取締出役の指揮のもと治安の維持や教諭活動に従事するなど、文化・文政期は、関東代官が地域支配のあり方に大きく影響を及ぼすこととなった(第三章第三節)。
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図1-69 馬喰町御用屋敷概略図 『図説神奈川県の歴史』所収の図をもとに作成。 |