伊奈忠富の跡を受けて馬喰町御用屋敷詰代官となり、小平市域四か村を支配したのは、小野田三郎右衛門信利(おのださぶろうえもんのぶとし)である。小野田家は桜田館(さくらだやかた)系の勘定の家で、信利は寛政五年(一七九三)より関東郡代付代官となり、のち遠州中泉(なかいずみ)(現静岡県磐田市(いわたし))・駿府(すんぷ)(現静岡県静岡市)代官を勤め、伊奈忠富の後を受けて馬喰町御用屋敷詰代官(二系統)となる。小野田の後任として文政四年より小平市域を支配したのは、中村八大夫知剛(なかむらはちだゆうともたか)である。中村家は持弓組(もちゆみぐみ)同心の家で、祖父知良(ともよし)から勘定を勤め、知剛は勘定として諸国川々普請などで成果をあげ、寛政一一年より関東郡代付代官となり、その後甲斐市川(現山梨県西八代郡)代官となる。文化一一年(一八一四)から馬喰町御用屋敷詰代官(三系統)、となり、文政六年(一八二三)から馬喰町御用屋敷詰代官(一系統)となる。小平市域の支配は、二系統の小野田が文政四年に甲府代官(現山梨県甲府市)に転出したのち、三系統の中村が多摩地域を引き継ぎ、中村が一系統に異動した文政六年に、小川村は韮山代官(にらやまだいかん)江川英毅(えがわひでたけ)に引き継がれるが、鈴木新田・大沼田新田(野中新田は不明)は、中村が二丸留守居(にのまるるすい)に転出する天保一二年(一八四一)まで継続して支配されたのち、江戸廻り代官に引き継がれた。以後、馬喰町系統の支配は江戸廻り代官の空白期の一時預かりを除き、原則なくなる。