野田の跡を受けて江戸廻り代官となったのは早川正紀(はやかわまさのり)である。早川家は鳥見(とりみ)・徒(かち)などを勤めた家柄で、正紀は井上河内守(いのうえかわちのかみ)家臣和田氏の子から田安徳川家(たやすとくがわけ)家臣早川正諶(はやかわまさのぶ)家に養子に入り、さらに早川家本家正與(まさとも)の養子となって明和三年(一七六六)に早川家を継ぐことになる。早川は勘定として諸国川々普請などで成果をあげ、天明元年(一七八一)に代官に転じ、出羽尾花沢(おばなざわ)(現山形県尾花沢市)・美作久世(みまさかくぜ)(岡山県真庭市(まにわし))の代官を歴任する。いわゆる寛政の名代官の一人で、尾花沢・久世では農民教化政策をはじめとして大きな成果をあげ、久世からの異動には、領民による大規模な留任嘆願運動が起こった(村上直『江戸幕府の代官群像』)。享和元年(一八〇一)に江戸廻り代官となる。江戸廻り代官は通常陣屋を設けず、江戸屋敷から支配を行うが、早川は久喜(現埼玉県久喜市)に陣屋を構え、遷善館(せんぜんかん)と呼ばれる教諭所を設け教化政策や治水事業に成果をあげた。また、関東の地域支配とかかわっても、先にみた関東取締出役制度を献策した代官の一人であり、川崎同様に、全国に早川を讃える(たたえる)碑が残されている(永山卯三郎『早川代官』)。