英毅についで小平市域を支配したのは、江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)である。英龍は洋学者・砲術家としても知られ、とくに、砲術家高島秋帆(たかしましゅうはん)から洋式の高島流砲術を伝授され、韮山には洋学塾が設けられ、全国諸藩から浪士や百姓・町人までが入門するなど、洋学の中心地となった。一方幕府に対しても洋式砲術の採用と幕府歩兵の再編(歩兵・銃卒(じゅうそつ)の訓練)、不足する銃卒を民間から登用する農兵制度を献策するなど、洋学や西洋軍学の知識をもとに、幕府に改革を迫る(第三章第五節)。その後江川は天保一四年(一八四三)より鉄砲御用役(てっぽうごようやく)の兼帯を命じられ、嘉永六年(一八五三)からは勘定吟味役次席に任じられるなど、一代官としての職責をこえて、関東の海防政策(かいぼうせいさく)に重きをなすようになる。小平市域では、天保六年より父英毅の跡を継いで小川村を管轄するようになり、天保一二年からは、もと江戸廻り代官支配地域の小川新田・廻り田新田と、もと馬喰町御用屋敷詰代官支配地域の野中新田の支配を管轄することになる。
図1-70 「江川英龍肖像画」
(公益財団法人江川文庫所蔵)