江川英龍のさまざまな献策のうち、農兵制度は、身分制の根幹にかかわることだったこともあり、英龍の存命中には実現しなかった。英龍の跡を継いだのは子の江川太郎左衛門英敏(えがわたろうざえもんひでとし)である。英敏は安政元年(一八五四)より鉄炮御用(てっぽうごよう)見習両番格(りょうばんかく)に任じられ、安政二年より家督を相続し、鉄炮御用・代官となる。文久元年(一八六一)より講武所(こうぶしょ)師範役兼帯(けんたい)となる。しかし、翌文久二年に英敏は急逝するため、農兵は文久三年に、弟英武のもとで実現することになる。農兵制度は、支配地域を対象として行われたため、小平市域の村々にも大きな影響を与えた(第三章第五節)。なお、英敏は鈴木新田を除く小平市域六か村を、安政二年(一八五五)から安政五年まで支配し、その後、江川支配地域の一部は海防のために熊本藩預所となり(後述)、安政六年より再び江川の管轄となっている。