江戸廻り代官

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表1-45 幕末期支配代官一覧表
代官名支配期間小川大沼田鈴木廻り田前歴後歴家禄備考
江川英龍1835.5.4~1855.2.26見習死去150俵韮山代官
1841.4.15~1855.2.26
1850.7.20~1855.2.26
関行篤1842.7.28~1842.11.28勘定組頭勘定吟味役100俵馬2
大熊喜住1842.11.28~1850.4.18評定所留役組頭西丸広敷用人70俵5人扶持江戸廻り
林部善太左衛門1850.4.18~1850.7.20勘定老免70俵5人扶持預り
1862.9.26~1863.4.16江戸廻り
青山秀堅1850.4.18~1850.7.20評定所留役西丸広敷用人100俵5人扶持預り
勝田充1850.7.20~1854.11.24小普請方勘定吟味役26俵3人扶持江戸廻り
小林藤之助1854.11.24~1857.12.20勘定吟味役改方老免 江戸廻り
江川英敏1855.5.9~1858.2.29見習死去150俵韮山代官
1859.4.29~1862.8.15
熊本藩預り1858.2.29~1859.4.2954万石預所
竹垣直道1857.12.20~1862.9.26勘定和宮用人150俵江戸廻り
江川英武1862.12.25~1868.6.29見習韮山県知事150俵韮山代官
木村定政1863.6.20~1863.8.28勘定組頭関東郡代付組頭20俵2人扶持預り
1863.12.20~1864.2.28預り
1865.閏5.28~1866.7.25馬1
佐々井久保1863.6.20~1863.8.28納戸維新政府200俵預り
1867.2.30~1867.7.27預り
木村勝教1863.8.28~1863.12.20評定所留役組頭兼勘定吟味役100俵江戸廻り
松村長為1863.12.20~1864.2.28神奈川奉行支配組頭武蔵知県事70俵5人扶持預り
1864.9.28~1865.閏5.28江戸廻り
1867.7.27~1868.8.11江戸廻り
屋代良忠1864.2.28~1864.9.28寄合維新政府100俵美濃郡代
今川忠恕1866.7.25~1867.2.30鉄炮玉薬奉行田安家用人30俵2人扶持馬3
大竹勝昌1867.2.30~1867.7.27鳥見維新政府15俵1人扶持預かり
*小川家文書、斉藤家文書、當麻家文書、当麻伝兵衛家文書、西沢淳男編『江戸幕府代官履歴辞典』などより作成。
*小川新田・野中新田両組は史料が少ないため略してあるが、この間、小川新田は1840年頃までは廻り田新田と同様、その後は大沼田新田と同様、1850年頃より小川村と同様になり、野中新田両組は1840年頃までは大沼田新田と同様、その後は廻り田新田と同様と考えられる。

開国期の江戸廻り代官はめまぐるしく変化する。関保右衛門行篤(せきやすえもん)は、勘定所留役(とめやく)・勘定組頭をへて馬喰町御用屋敷詰代官(二系統から一系統)となり、のち勘定吟味役・新潟奉行(にいがたぶぎょう)・堺奉行(さかいぶぎょう)・小普請奉行(こぶしんぶぎょう)・作事奉行(さくじぶぎょう)・京都町奉行・留守居並(るすいなみ)・和宮付(かずのみやづき)と栄進していく。小平市域では、馬喰町二系統の時に、山本大膳のあとの江戸廻り代官支配地域を一時管轄していた。関の一時預りののちに小平市域を管轄したのは大熊善太郎喜住(おおくまぜんたろうのぶすみ)である。大熊は寺社奉行吟味物調役(じしゃぶぎょうぎんみものしらべやく)・勘定組頭、評定所留役組頭(とめやくくみがしら)をへて江戸廻り代官となり、のち西丸広敷用人(にしのまるひろしきようにん)・佐渡奉行へ栄進している。大熊ののち、後任の勝田次郎(かつたじろう)に引き継ぐ間、市域は再び馬喰町御用屋敷詰代官二系統の林部善太左衛門(はやしべぜんたざえもん)と、一系統の青山禄平秀堅(あおやまろくへいひでかた)の預り支配となる。林部は富士見宝蔵番(ふじみほうぞうばん)・勘定をへて代官となり、上野岩鼻陣屋をへて馬喰町御用屋敷詰代官二系統となっている。青山は評定所留役から代官となって諸国を歴任し、馬喰町御用屋敷詰代官三系統から二系統となり、のち広敷用人、天璋院(てんしょういん)・和宮用人となる。一時的な預り支配の後、小平市域を管轄したのは、勝田次郎充(かつたじろう)である。勝田は勘定吟味方改役並・小普請方を経て代官となり、諸国代官をへて江戸廻り代官となり、のち勘定吟味役・箱館奉行(はこだてぶぎょう)・先手鉄砲頭(さきててっぽうがしら)へ栄進している。このとき、大沼田新田は江川の支配地へ編入され、小平市域の江戸廻り代官支配地域は鈴木新田のみとなる。勝田の後任は小林藤之助(こばやしとうのすけ)である。小林は勘定吟味方改役から代官となり、諸国を歴任したのち、江戸廻り代官となっている。
 このように、開国期の江戸廻り代官支配はめまぐるしく変遷するが、その理由は、江戸廻り代官の後任が決まるまでを馬喰町御用屋敷詰代官が一時預りするためである。江戸廻り代官就任者は、その後、幕府経済官僚として勘定吟味役を嚆矢(こうし)に昇進を重ねる者が多く、嘉永期以降、勘定所は開国にかかわる行政事務が激増することにともない頻繁な人事異動が行われ、後任人事が決まらないうちに異動してしまうことが多かったことによる。また、この傾向はその後さらに激しくなる。
 以上により、小平市域の支配は、嘉永四年(一八五一)年以降、江戸廻り代官の支配する鈴木新田と、江川の支配するそのほかの村となる。