嘉永六年(一八五三)一一月に、江戸湾防備体制は、台場を管轄する川越藩(かわごえはん)・会津藩(あいづはん)・忍藩(おしはん)、羽田大森(はねだおおもり)を管轄する彦根藩(ひこねはん)、安房上総御備場(あわかずさおそなえば)を管轄する岡山藩(おかやまはん)、武蔵本牧(ほんもく)を管轄する鳥取藩、相模国御備場を管轄する熊本藩・長州藩(ちょうしゅうはん)というかたちで再編される。この再編にともない、相模国の諸村は熊本藩の預所(あずかりどころ)となり、安政五年(一八五八)二月、さらに相模国高座郡(こうざぐん)・武蔵国多摩・都筑郡(つづきぐん)の幕領諸村が熊本藩の預所となる。小平市域では大沼田新田・小川村・廻り田新田が熊本藩の預所となる。熊本藩は預所に対し、改革組合村からの離脱・一部の村役人への苗字帯刀等特権付与・夫役人足調査賦課・新規高札・貯穀調査(ちょこくちょうさ)など、周辺の幕領とは異なる独自の支配を展開する(第二章第八節、第三章第五節、『東村山市史1』通史編上巻)。預所への支配替えに際し、江川支配地域からは領地替え撤回運動が展開される。しかし、預所となって一年ほどの期間をへて再び幕領に戻るが、その際も、幕領へ戻ることに対する反対嘆願が行われる。