最幕末期の小平市域の支配

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小平市域を支配した最後の韮山代官は、江川太郎左衛門英武(えがわたろうざえもんひでたけ)である。英武は文久三年(一八六三)より鉄炮御用兼帯を命じられ、父・兄に引き続き、韮山を拠点に、相模・武蔵の地域支配と、海防政策に従事し明治維新をむかえる。

図1-71 「江川英武肖像写真」(公益財団法人江川文庫所蔵)

 一方、江戸廻り代官はその後も頻繁に入れ替わる。竹垣三右衛門直道(たけがきさんえもんなおみち)は、曾祖父の代より代官を勤める名代官の家柄である。直道は勘定から代官となり、諸国代官を歴任したのち、馬喰町御用屋敷詰代官三系統となり、安政四年(一八五七)より江戸廻り代官となる。竹垣のつぎの江戸廻り代官は林部善太左衛門(はやしべぜんたざえもん)である。林部は馬喰町御用屋敷詰代官として小平市域を一時管轄していたことがあるが、江戸廻り代官の在任期間はわずか一年で老衰により隠退している。しかし、林部の後任が決まらないため、江戸廻り代官支配地域は馬喰町御用屋敷詰代官二系統の木村と三系統の佐々井半十郎久保(ささいはんじゅうろう)の一時預りとなる。木村董平定政(きむら)は、小普請方改役・書物奉行・鉄砲玉薬(てっぽうたまぐすり)奉行をへて馬喰町御用屋敷詰代官二系統から一系統となり、その後、勘定組頭・関東郡代付組頭となっている。佐々井久保は、納戸番から代官となって諸国を歴任し、文久三年から馬喰町御用屋敷詰代官三系統から二系統となって明治維新をむかえる。林部の後任の江戸廻り代官は木村敬蔵勝教(きむらけいぞうかつのり)である。木村は評定所留役から江戸廻り代官兼帯となり、関東郡代の再設置を立案し、自ら郡代付代官となる。のち勘定吟味役・勘定奉行並公事方道中(くじかたどうちゅう)奉行兼・関東郡代・勘定奉行へ栄進する。しかし、木村自身が関東幕領再編の当事者となって二か月足らずで異動してしまい、再び後任が決まらなかったため、支配地域は馬喰町御用屋敷詰代官三系統の松村忠四郎長為(まつむらちゅうしろう)と、先述した一系統の木村董平に一時預りとなる。松村は、勘定から下田奉行(しもだぶぎょう)支配組頭・神奈川奉行(かながわぶぎょう)支配組頭・賄頭次席(まかないがしらじせき)をへて、文久三年に馬喰町御用屋敷詰代官三系統となる。その後、最後の江戸廻り代官として維新政府に帰順し、最初の武蔵知県事(ちけんじ)となる(後述)。木村の後任は屋代増之助良忠(やしろますのすけ)である。屋代は広敷添番(ひろしきそえばん)・支配勘定・評定所留役をへて諸国代官を歴任し、のち西国郡代(さいごくぐんだい)・勘定吟味役に栄進する。木村敬蔵の後任がなかなか決まらないなか、江戸廻り代官支配地域は木村・松村立会役所から、九州を管轄する西国郡代の屋代の管轄となる。その後、元治元年(一八六四)九月より、江戸廻り代官支配地域は、木村の後任の松村の支配地域となる。
 最幕末の凄(すさ)まじい江戸廻り代官の異動のなかで、管轄地域にも若干の変動がみられる。慶応二年(一八六六)五月、江戸廻り代官支配地域の一部(鈴木新田・貫井村・国分寺新田など)は、再び馬喰町御用屋敷詰代官一系統の管轄となる。当時の馬喰町御用屋敷詰代官一系統は今川要作忠恕(いまがわようさく)である。今川は小普請方改役・新潟奉行支配組頭・鉄砲玉薬奉行から代官となって諸国を歴任し、元治元年より馬喰町御用屋敷詰代官三系統となり、その後一系統へ移り、田安家用人に転出している。今川の後任は大竹左馬太郎勝昌である。大竹は鳥見から代官となって諸国を歴任し、慶応二年より馬喰町御用屋敷詰代官三系統となり明治維新をむかえる。馬喰町御用屋敷詰代官一系統は、慶応二年末に今川要作が異動すると後任は設けられず、支配地域は三系統の大竹左馬太郎(おおたけさまたろう)と二系統の佐々井久保の一時預かりとなる。
 その後、鈴木新田は、大政奉還を目前にした慶応三年七月二七日に再び江戸廻り代官支配の支配地域となり明治維新をむかえる。